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 オーストラリアで社会学の教授をやっている著者。社会学という最も曖昧な領域を学問対象としている人なので、理屈っぽいとまではいかなくても、筋っぽい文章になっている。
 このような社会学的な考え方が基礎になって、表題のタイトルになったらしい。だからといって、ヨコ帯に書かれているような、“非民主国日本への警告の書” というのは要らぬ大きなお世話である。この論旨以外で手前勝手な処をピックアップして書くのが私のブログたるものである。 


【書評をやってもらうこともある】
 その際、私の書いた英文の書籍や論文を与え、最も説得力のある反論を提出したり、挑戦的な代替案を提案した学生を、最も高く評価するという方針でやってきている。「先生のお説はすばらしい」 などという書評論文は、最低点である。こうして自分独自の論陣を、構築する訓練を積むことが、社会科学の基本的トレーニングとなるのである。 (p.85)

 分からない話を聞かされたり読まされたりした場合でも、とりあえず頷いておくのが普通の日本人的ありかたのように思う。しかし、私は日本人であるけれど分からない話には頷かない。分からないどころか直感的に違っていると思う場合は、露骨に眉根を寄せている。否定できる材料や具体的事実を知らないときは黙っている。知っているならば、躊躇することなくその内容を告げる。
 人に自分の間違いを指摘された場合は、素直に受け取って、自分の考えを破棄するか、指摘された内容を取り込んで自分の考えを再構築できるかどうかジックリ取り組む。自分のことであれ人のことであれ、間違っていることを恥ずかしいとは思わない。多くを学ぶということは、修正・変更・追加を常態とする柔軟な考え方を学ぶことだと思っている。間違いを指摘された途端に赤面したり恥ずかしがったり怒り出したりする人は、多くを学ぶために費やした時間の絶対量が少ない故に、柔軟さという重要な価値に思い至っていない証拠である。 


【日本礼賛論】
 日本礼賛論は日本社会のウラ・オモテの両面を描かない。オモテ向きのキレイごとの部分だけを繋ぎ合わせて、日本人の日常生活の中に毎日現れる権力関係の現実を視野から脱落させる。・・・その意味で、日本礼賛論者は日本の権力エリートの代弁者としての役割を果たしている。 (p.111-112)

 著者は社会学者なのでこのような解釈に傾くのであろう。畢竟するに、純粋に社会学的見地を墨守するならば、すべての国々の長所と短所は、同じだけ語られうる。「**礼賛論」というタイトルが既に、偏向の産物であることを示している。私はそもそもからして、日本礼賛論には興味が無い。


【書き言葉は話し言葉とは違う】
 きちんとした書き言葉としての英語は、英語圏に育ったからといって、必ずしも完全に身につくとは限っていないというのである。確かに日本語圏に育ったからといって、それだけでは、きちんとした日本語が書けるとは限らない。 (p.168)

 日本にいる謙虚すぎる留学生に、著者と同じことを話すことがしばしばある。日本の若者の会話を注意深く聞いていると、たいていは文章になっていない。高校生などは単語だけで会話になっていたりする。おそらく、家庭で両親がきちんとした文章で会話をしていないから、子どもたちまでそうなってしまうのである。両親が単語会話しかできなければ、その家庭の子供は知的な発達でさえ遅れるのである。
 故に、どの国の言葉であれ、書き言葉としての能力は、単語会話に狎れ親しみすぎた自国民より、鋭意努力して文章を学んでいる外国人のほうが高いレベルにあったとしても、なんら不思議はない。

 

<了>