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 正直なところウンザリしながら、故に、所々意識逃亡状態で読んでいたから、キッチリ読んだとは到底言えない。なにせ、くだらん内容に辟易していたから、この本に納められている2編の小説を読むのに3日もかかったのである。こういう小説を読むと必ず読書スランプになってしまう。
 この小説に記述されているようなことを考えつきそうな若者が少なくないだろうことは容易に想像できるけれど、なんか “許せない” という感じの読後感が募るのである。
 そもそもこの小説には、不潔で汚い記述が少なくないのである。美を希求する心を持つ作者なら、決してこの様な汚い表現を平気で書き付ける訳はないと思う。「こんな不潔な表現に満ちた小説を書いていながら、よく恥ずかしげもなく自分の顔写真を横帯につけるなぁ」 と呆れてしまうのであるけれど、何々文学賞と冠がついただけで、多くの用語を知ってそれらを書き込んで出来上がっている自らの文学表現を衒う気持ちにターボがかかったのだろう。だから余計その精神に対して眉をひそめるのだけれど、そういうことは、「美のたしなみ」 を心得た女性になることができた場合にのみ、年齢が長ずるに及んで漸く恥らいとともに自覚できることなのだろう。
 それにしても、まだ、腹立たしいというか不快感がぬぐい切れないから、文句書いたろ。
 と、
 ここまで書いて放置したまま、読後2週間も経過してしまったから、全体の印象が既に希薄である。

 

 

【観念しちゃいなよ】
 だったら幻想だとか仮象だとか何だとかごちゃごちゃ言ったりしないで、無駄に頭なんて使わないでさ、田舎者なら田舎者らしく洗練から遠くは離れちゃってさ、馬鹿なら馬鹿らしくとんだピュアネスになっちゃってさ、どっぷりとそれにはまっちゃった方がまじいいじゃん。いろいろ面倒なことは放棄しちゃってさ、お互いもう若くもないんだしさ、いっそのこと観念しちゃいなよ。(p.15)
 このようなことを内心で思ったり他者から言われたりすることは誰でも一度くらいあるのかもしれない。しかし、若者がこのようなことをあっけらかんと文学で表現すること自体に、チャンちゃんは憮然とする。何故なら、文学を著したがる純粋な若者なら “とんだピュアネスになっちゃう” のではなく “生粋のピュアネスを維持したまま真摯に何かを希求すべきではないか“ と思うからであるし、それこそが文学精神の原点ではないかと思うからである。
    《参照》   『神さまが教えてくれた幸福論』 神渡良平・小林正観 (致知出版) 《後編》
              【文学と作家の役割】

 <文句その1>
 怠惰な精神でとっとと観念することを推奨するような、安易でくだらん文学を若者が書くな!

 

 

【高貴な精神ではなく卑近な感情に従う女性】
 肉の薄い二重瞼を開き、形の良い眉毛を上向きにしゃくって、鼻頭にかわいらしい小皺をいっぱい寄せて、その美しさは眩しい秋の光の中で真らしさを増すばかりだった。
 中川はもう我慢できなかった。本当の気持ちを隠してはいられなかった。本当に、奴が欲しくて欲しくて堪らなかった。奴は無邪気で能天気で軽薄で豪快で軽率で色情狂で嘘つきである。勿論そんなことは十分わかっている。これまでの経験からもそれは承知の上だ。けれど、だ。奴に触れ、奴にキスし、奴に抱擁され、奴に搦めとられ、奴に縋り付きたいという感情に従わずにはいられなかった。美しい奴のすべてを求めずにはいられなかった。行ったり来たり彷徨する心を押し切って、ついに中川は奴がいる方へ戸惑いながらも手を伸ばした。指が震える。熱い吐息が洩れる。目が溶けたようになる。奴を、この感覚を、もう二度と手放したくはない。(p.65-66)
 脳味噌が下半身についているような美しい奴の外見に取り込まれてゆく心理と快感を記述しているのだけれど、こういう世界を記述している著者にとって、文学の存在意義って一体全体何なんですか? と問うてみたい。
 この書籍に掲載されている小説2作とも、肉体感覚レベルにすべてが引きずりおろされるような内容なのである。
 精神の高みへ至ろうとする精神は、どこにも感じられない。そもそもそれは男性的精神によって為されることであるようにも思うから、女性である著者の作品に期待すべきものではないかもしれないけれど、この作品の中に登場する男どもが、押し並べて肉体頭脳派であるからまたどうしようもなく腹立たしいのである。
 男が堕落してゆけば相対的に女性が際立つけれど、こんな小説を書いている女性著者の知性と文学性を、大人である一般男性読者が形容するならば、 “ベトベト、グチャグチャ” という感じである。
 畢竟するにセックスに収斂してしまうような精神は、高次元へと至る可能性のある何ものをも生みださないのである。それは人間の脳の構造がそうなっているからである。これらの小説に記述されている肉体的描写が、著者の体験によっているのであるならば、すでにこの著者から崇高なる文学が生み出される可能性は、まったくないに等しいのである。
   《参照》   『いい女は、セックスしない』 石崎正浩  なあぷる
             【人間を人間たらしめるもの】

 <文句その2>
 著者自身の精神性がどれほど破廉恥であってもかまわないが、このような薄汚い精神を文学にしてまで世間に晒すな!
 このような薄汚い表現と胡乱な精神に満ちた小説は、世界から消えてしまえ!

 

 本当に、心から、魂の最も深い部分から、そう思う。

 

 

【撰者評】
 横帯の裏側に記述されている笙野頼子氏評。
 欠点も多い。
 救いも汚物もすぐに出て着すぎるし。
 でもでも、ああまたしても私はこのような感じの新人に釣られました。
 宗教なき現代にもっと、絶望を! もっと祈りを。
 女性著者と女性撰者による類友会評なのだろう。アホ臭っ。
 この撰者評に則して考えてみても、やはり愚かしいのである。少なくとも男性著者である 坂口安吾が 『堕落論』 を語った場合には、その言葉とは真反対の精神が込められていたのは周知のことである。
 この2編の小説は、全てを否定しただただ放擲するばかりである。絶望や祈りなどあったか? この小説からそんな精神が感じられるか? 出鱈目な美化をするな!

 

 

【すばる文学賞】
 巻末に、「第26~30回 選考委員が世に残した珠玉の受賞作」 として7作品が紹介されている。
 その中には、 『漢方小説』 や 『蛇にピアス』 (芥川賞とW受賞)があるけれど、他にも読んだことのある “すばる文学賞” に、大鶴義丹の 『スプラッシュ』 がある。
 『スプラッシュ』 など文学的中身など全くないだろう。ロクに本など読んだことのない人間が、夏のサーフィンに群れ集う若者の経験を書いてみたというだけで、技巧も感性も何も傑出したものなど、ほぼ完ぺきにゼロだろう。
 『蛇にピアス』 については、露骨に酷評のような読書記録を残している。
 『漢方小説』 にも文学的深みなど殆どない。
 チャンちゃんが読んだことのあるこれら3作品から想像すると、 “すばる文学賞” って「中学生程度の文学レベルなのだろうな」 としか思えない。こんなことを書くと、本好きな中学生の中には 「そこまで馬鹿にしないでほしい」 という中学生もいることだろう。
 “選考委員が世に残した珠玉の受賞作” などという呆れた文言があったから、逆切れしてここまで書いてしまった。

<了>