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 主に戦前・戦中(1906~1955)の時代を生きた人のエッセイ集だから、その時代の人々の考え方を知るという点で役立つかも。真剣に読んだら本を手に持ったまま自分の思念世界に入ってしまいそうなので、そうならないようにサラッと読んだ。
 日本文学を専攻している学生だったら、坂口安吾の著作を読まないなんてありえないだろうけれど、彼と同時代を生きていた島崎藤村、芥川龍之介、夏目漱石、太宰治等の作品に関して「なるほど」と思える文学論が記述されてもいる。

 

 

【文学が生まれてくるところ】
 人は孤独で誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。(p.30)
 チャンちゃんもそう思っている。この相対性の世界ではどこにオフセット(支点距離)を取ろうとも自由は定まらない。だから孤独と自由は必然的に連動して自覚される。文学は、どう表現しようと、永遠に宙ブラリンなのである。

 

 

【女性の孤独】
 宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの侘びしさが、お分かりでしょうか」という意味の一行があったはずだが、たいせつな一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。 ・・・(中略)・・・ 。
 だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落の恐るべき距離について、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。(p.42)
 「孤独であることに平気」と言う男性は少なからずいる。男は、孤独こそが創造や思念に没頭できる貴重な状態であると自覚している。しかし、女性は一般的に孤独に耐えられないらしい。女性に言わせれば、「こんなに痛烈で呪わしい孤独なのに、男ってよく平気で芸術だとか文学だとかなんかに凝ってられるわよね」ということなんだろう。
 上記の書き出しは「青春論」の中にあったものだけれど、学生時代にこれを読んでいたのなら、「なんで気づかなかったのだろうか?」と今更ながら思ってしまう。今でこそ「男は現象であり、女は実体である」という養老さんの著作の中にあった表現(名言)がよく分かるけれど、当時は全然分かっていなかったから、クラブの討論会で女の子の意見が全然理解できないことの根拠にすら気づけていなかった。いかんせん後の祭りである。
   《参照》   『途中下車』 高橋文樹 (幻冬舎)
               【男だけ】

 

 

【青春論は淪落論】
 僕は自分の愚かさを決して誇ろうとは思わないが、そこに僕の生命が燃焼し、そこに縋って僕がこうして生きている以上、哀惜なくして生きられぬ。僕の青春に「失われた美しさ」がなく、「永遠に失われざるための愚かさ」があるのみにしても、僕もまた、僕の青春を語らずにはいられない。すなわち、僕の青春論は同時に淪落論でもあるという、そのことは読んでいただければわかるであろう。(p.45)
 今だから、なんとなく微笑をたたえてこの記述を読むけれど、大学生時代だったらこの表現に感じいって、淪落を友として、深い闇の中に好んで沈降していったことだろう。
 中学生・高校生の頃にヘルマン・ヘッセの『車輪の下』に嵌ってしまった男の子は、ほとんど青春論=淪落論という路線に乗ってしまっているはずである。

 

 

【日本人の性】
 武士は仇討のために草の根を分け乞食になっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱を持って仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか、彼らの知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協肝胆相照らすのは日常茶飯事であり、仇敵なるがゆえにいっそう肝胆相照らし、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。(p.92)
 民族を比較した場合の復讐心の強弱については、中国の古典を読んだことがある人なら説明の要はないはず。どんなに腹を立てていても、「水に流す」のが生き方の基本である日本人は、復讐の相手が死んでしまえば、もう完全に終わりなのであるけれど、中国人なら死者にすら鞭を打ち続けるのが普通である。
   《参照》   『やまと心のシンフォニー』 松浦光修  国書刊行会 
             【痛ましい神】

 日本の国技である柔道のトーナメント戦には敗者復活というルールがあるけれど、復讐心に満ちているのが普通の諸外国が、そんなルールをつくり出すことは絶対にない。ありえない。
 そして、「二君に仕えず」という諺は忠臣の条件であるかのように語られるけれど、将棋の世界で、取った相手の駒を自分の駒として使えるなんていうルールがあるのは、世界の中で唯一日本の将棋だけである。

 

 

【その驚くべき愛情】
 米人たちは終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者たちの行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に15,6,16,7の娘たちであった。 ・・・(中略)・・・ 。
 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落に過ぎない。(p.98-99)
 これを読んで 「天地に仁なし、万物を以て趨狗となす」 という古典の文言を思い出すけれど、偉大なる破壊の威力による「仁なき大愛」に対して、人は逐一悲しんだり嘆いたりしないものだろう。それは堕落などとは無縁の、大いなる創造の前提なのだから。

 

 

【個と世界】
 原始人の生活においては、家庭というものは確立しておらず、多夫多妻野合であり、嫉妬もすくなく、個の対立というものはきわめて希薄だった。文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、個の対立は激化し、尖鋭化する一方なのである。
 この人間の対立、この基本的な、最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、世界聯邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのか。(p.112)
 人は皆、昔から人類にはそれぞれ当たり前に個の意識があると思っているのだろうけれど、人類に個の意識が芽生えたのは、そんなに古い時代ではない。人類全体の意識は常に宇宙規模の長大なサイクルを描く変容の途上にあるのである。
 現在は、分離個別化に下降するサイクルを脱している。1995年からは、融合共生化へと上昇するサイクル軌道に入っているのである。
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》
             【文明の盛衰を定める 『ガイアの法則』 を知っていたシュメールの叡智】
              ~【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 分離個別化のサイクルを推進してきた西欧において、個人主義と戦争の歴史は全くもって不可分であり、自を明確にするアイデンティティーなる用語は、その過程で必然的に生じてきたのである。極東に位置する日本は、そもそも最大融合極性を持つ波動域(産土力)なので、西欧のように根深い血ぬられた戦争の歴史はなかった。故にアイデンティティーなどという概念は必要なかったのである。
 しかしながら、国際交流が活発になってきた近代に到って、頑迷固陋な石頭の外国人に対して彼らの知の枠組みで説明しなければ分からないらしいから、日本や日本人にとってのアィデンティティーらしきものを言葉で表現しなければならないのである。
 世界連邦政府が成立するには、個人、集団、地域、国家などの単位を構成するものが、枷となっているメンタルな鎧を脱ぎ捨て、融和に向けて武装解除するのが絶対条件である。そしてその中心に立って推進役を担うのは、どうしたって日本である。日本以外にこれに相応しい国はありえない。