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 皇學館大学の助教授という方なので、日本の古典や文学の美しい文章に触れてきた時間が長いからであろう、読みやすい綺麗な文章で書かれている。


【痛ましい神】
 アマテラスの弟神であるスサノヲを 「痛ましい神」 とタイトルにした評論は分かりやすい日本人論になっている。 『古事記』 の 「うけひ」 に関する部分から、『風土記』 にかけての記述である。
 おそらく、スサノヲの神は、「自分が間違っているたことは認める。だから 『地下の国に行け』 といわれれば良く。しかし、自分が姉を思う純粋な気持ちだけは、どうしても伝えておきたい」 という一心で、引き返したのであろう。そして、その「純粋な気持ち」を証明するために、「うけひ」 を行い、そのことが証明されると満足し、「お幸せに」と言って去るのである。
 一見すると不可解な言動であるが、日本人ならば、その背後にある心の動きを、なんとなく理解できるのではなかろうか。 (p.47)

 追放される身でありながら、追放する相手の未来を祝福しているのである。これは精神的に、かなり高い境地ではなかろうか。 (p.48)
 スサノヲの神は、いわば正しく 「死」 を迎え入れ、「再生」 へのステップをふんでいった。そして、次に登場するときには、周知のとおり、クシナダ姫を守ってヤマタノオロチと戦いついには姫と結ばれる「英雄」として、神話に登場するのである。 (p.49)

 たとえばスサノヲの神は、『風土記』 では武塔神(むたのかみ)としてあらわれたが、その武塔神は、やがて平安時代の中期には祗園御霊会で祭られ、後期には牛頭天王という神として祭られている。いうまでもなく、祗園御霊会とは、京都の夏の風物詩として知られる八坂神社の祗園祭の原型である。八坂神社には、武塔神が微笑んだ蘇民将来も祭られている。 (p.55-56)
 死者に鞭打つ中華民族、恨(ハン)を堅持する朝鮮民族、いずれも、魂の本源において大和民族とは全く出自を異にする民族である。
【「ことよさし」の忘却⇒「泣きいさち」⇒「けがれ」】
【「泣きいさち」】
【「ことよさし」】

 

 

【死刑廃止に関する中国と日本の歴史】
 平安時代、大陸には、唐という専制国家があり、第6代の玄宗という皇帝は、虚栄心の強い人物であった。自ら「聖天子」であることを、天下に信じこませようとしていたが、そのための政治的パフォーマンスとして利用されたのが、死刑廃止という政策である。 (p.65-66)
 むろん、これは言葉の上だけのことにすぎない。実際には古代より、世界にも類を見ない残酷な処刑方法(酷刑)が続けられていたことは、今日ではよく知られている。(王永寛 『酷刑』 )
 ところが、日本の遣唐使たちは、このカラクリまでは見えなかった。「徳治」 というタテマエの部分だけに、無邪気に感激して帰り、唐こそが世界に冠たる「先進的な文明国」であると信じ込み、はては・・・ (p.67-68)
 嵯峨天皇は玄宗より百年ほど後に誕生されたが、そのころには、もう日本人にとって玄宗は、伝説上の「聖天子」であった。かくして、日本でも死刑が停止される。驚くべきことに日本には、いっさい「ウラ死刑」がなかった。 (p.68)
 わが国の民衆尊重の歴史はかくも古い。さらに玄宗の死刑廃止が、わずか10年ほどで終わったのし対して、わが国ではその政策が、347年間も続いたのであるから、ここまでいくと、わが民族のことながら、その律儀さに絶句するほかない。 (p.69)
 今日の日本に未だ存在する「人権主義」を掲げる共産主義者は、「徳治」をかかげる玄宗のカラクリが見えなかった遣唐使と同じである。いや、遣唐使の時代より遥かに知識や情報の溢れた時代にありながら、共産主義者であり続けることができるというのは、まさに極上の馬鹿か真性の悪魔である。

 

 

【「皇国史観」の本流】
 保元の乱の後、政権は公家から武家へと遷り、文化も女性的なものから男性的なものへと遷っていった。わが国の歴史上、これほど巨大な政治上・文化上の変化が同時に生じたのは、明治維新まで存在しないであろう。北畠親房は、その歴史変化の根本的な原因を、「国民道徳中枢の麻痺」 と考えた。これは、歴史展開の原動力は道徳である、とする歴史観であり。いわば道徳史観といえよう。
 やがて、この道徳史観は、江戸時代の歴史学者・栗山潜鋒の 『保元大記』 において復活し、やがては、それが幕末の志士たちにも継承されてゆくことになる。この過去への痛切な反省を基にする歴史観こそが、意外なことに、じつは正しい意味での 「皇国史観」 の本流であり、これは大東亜戦争中に喧伝された 「皇国史観」 とは似て非なるものである。 (p.83-84)

 

 

【 契沖の 『万葉代匠記』 国学の基礎 】
 武家出身の隠者である長流は、『万葉集』 の研究書を幾つか書いており、その道の専門家として有名な人であった。徳川光圀は 『万葉集』 の研究協力を長流に依頼したのであるが、完成がおぼつかず、その仕事が、契沖に回ってきたのだという。
 「代匠記」 というのは、師匠(長流のこと)の代理で書いた本という意味で、いかにも衒いのない契沖の人柄が、よく現れている。 (p.116)
『万葉代匠記』 は、契沖の学問を代表する著作というばかりではない。そもそも国学(皇学)という学問は、ここに基礎をおくのである。 (p.114)

 

 

【天皇信仰のかたち】
 それでは、なぜ明治以降の民衆は「天皇は尊いもの」と信じてきたのであろうか。それに答えることは、ある意味では簡単である。「明治より前から、そう信じていたから・・・」というだけのことである。その証拠をあげれば枚挙にいとまがないが、とりあえず、いくつかその証拠を挙げてみよう。 (p.124)
 ということで、日本人がいかに天皇を尊崇し信仰してきたかを、さまざまな文献に残されている記述をもとに紹介してくれている。
 “明治政府によって天皇の神格化が行われた” などというのは悪い冗談に過ぎない。
 事実は、その逆であろう。近代化が進むにつれて、民衆の天皇観は、 “神々に近い方” から “人間に近い方” へと変化していった、と考えたほうが実際に近い。 (p.134)
 

<了>