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 今年、90歳で亡くなられた著者。数カ国の大学で教鞭をとったことのある方で、日本で教えていても数カ国語がペラペラと出てきてしまうような知識人だったそうである。
 この本は1962年に光文社から出版されてベストセラーになったという。

 

 

【読書に最もふさわしい場所】
 この世の中で読書に最もふさわしい場所は、私の知るかぎり、外洋航路の船、それも客船よりは貨物船だと思います。(p.20)
 余りにも想定外の記述で仰け反る。こんなの真似したくたってできない。1919年生まれの著者だから、若かった頃には貨物船で海外へ行くなどという方法があったにちがいない。現代でも、貨物船が格安料金で一般客を乗せてくれるなら、長編小説の文庫でも携えて乗り込む人がいそうな気がする。

 

 

【西洋思想の柱】
 西洋思想のもう一本の柱はギリシャです。 ・・・(中略)・・・ 。西洋中世のキリスト教がその神学を組みたてるときに骨組として使ったのは、アリストテレスの哲学とその論理に他ならなかったからです。しかしまた、おそらくプラトンをあげることもできるでしょう。西洋思想の一つの特徴は、精神と肉体、観念と物質、主観と客観、形と素材、概念と実際などの対立をするどく意識し、その関係をつきとめることにあると考えられるからです。そういう対立の鋭い意識は、プラトンに典型的に表れています。(p.51)
 知の系譜とすれば、ソクラテス → プラトン → アリストテレスという順序になる。二項対立の論理に傾斜していった西洋思想を遡って源的なところに位置するソクラテスは、前論理的な思想を胎胚していたのだろうか。ソクラテスは日本神界の軸となる場所に鎮まっている。

 

 

【耳学問の効用】
 河野与一さんや丸山真男さん、川島武宣教授や渡部一夫先生、その他ここに数えきれない私の友人や知人は、外国でも、日本でも、私の読むことのできない面白い本をたくさん読んでいて、その話を日常座談のなかに織り込みます。朱に交われば赤くなる。つきあい相手が無学文盲だと、こっちもそうなりがちであり、つきあい相手に学問知識があると、俗に耳学問というものがバカにならない。本を読まずにいても、よいつきあいはそれを補ってくれるようです。(p.112-113)
 これはよく分かる。ピッカピカ白紙白痴の大学一年生ホヤホヤだった頃、私を耳学問で啓発してくれたのは、主に大学院に通っている先輩たちだった。

 

 

【スノビズムの効用】
 文化的価値を認めなければ、「スノビズム」さえも成り立たないので、これは少なくとも 「ドーセバカイズム」 のように破壊的ではないでしょう。 ・・・(中略)・・・ 。「ドーセバカイズム」 と博覧強記主義のあいだに、本を読まざる工夫があり、読まなくても読んだふりをする工夫があってしかるべきでしょう。「どうせ私はばかですよ」 と言っていたのでは、いつになっても私はばかでなくならない。読まない本を読んだふりをしているうちに、ほんとうに読む機会も増えてくるのです。(p.122-123)
 理系の世界では “知ったかぶりっ子” は通用しないけれど、文系の世界ならこれも可能である。
 少しばかり本を読んでいても、本なんていくらでもあり過ぎるから、雑談の中で特定の書物に言及されても、ただちに対応できないのが普通である。そのことを互いに了解し合っている者同士だからこそ、スノビズムも許容される。後付けで読んでみて、なるほどとかなんとか思えたらそれでいい。

 

 

【言語と思考体系】
 私たちは、複雑な考えを言葉なしに負うことはできません。数学的な思考が数学的記号を抜きにして組み立てられないように、人間の考えは、日本語とか英語とかいう言葉の記号体系を使わずにはあり得ないものです。その記号体系が違えば考えもまた違う。西洋語の文章と構造と相対するということは、したがって、日本語とは違う西洋語の構造にあらわれている西洋式思考の過程と相対するということです。 ・・・(中略)・・・ 。簡単にいえば、部分から全体へという過程に加えて、全体から部分へというものの考え方もできるようになるかもしれません。それは思考力、ものを考える力の進歩です。(p.146)
 西洋語は、例えば 「私は行く」 と言った後にその場所とか時間とかの詳細が付加される。いわば全体から部分へと進む。日本語は逆である。
 この文章を読んでいて “organize” という言葉を思い出した。 “組織化” という意味であるけれど、全体的に考える思考様式でなら生じやすい概念である。
   《参照》   『新・日本イソップ物語』  江崎玲於奈  日刊工業
              【オーガナイズ】
 しかし、日本人を組織化すると、日本人の長所は失われやすいのである。
   《参照》   『超人「船井幸雄」の近未来予測』  柳下要司郎  あ・うん
              【肩書き、組織化、称賛無用】

 

 

【聖書と新聞】
 「新聞は重要な読書である」 という小見出しの中にある記述。
 ある人が、フランスの詩人で劇作家のポール・クローデル(1868-1955)に、「あなたの愛読書はなんであるか」 とたずねたところ、クローデルは言下に 「聖書と日刊新聞」 と答えたそうです。これは、この有名なカトリック詩人の晩年の話で、その答えには彼の自信のほどがよく現れていると思います。芭蕉のことばでいえば、聖書は不易、新聞は流行を代表するでしょう。もしカトリック風のことばを使えば、聖書は 「真理」 を、新聞は 「事実」 を代表するといえるかもしれません。(p.157-158)
 経営者が、「古典と日刊新聞」 というなら分かるけれど、劇作家がこれに類する 「聖書と日刊新聞」 というのは、やや当惑する。しかし、芭蕉が芸術に求めたものこそ 「不易・流行」 だったのだから、当惑するわけにもいかない。
 つまり、経営者も芸術家も、学ぶことないし目指すところは “いっしょ” ということになる。

 

 

【日本ジャーナリズムの天才的発明】
 国際的に見れば、日本は雑誌の国です。まず第一に総合雑誌というもの ―― 政治・経済・社会・文化の各方面にわたり、一か月ごとに報道と論争を兼ねて編集したついでに、多少エロティックな小説もつけ加えた月刊雑誌というものは、日本ジャーナリズムの天才的発明であって、私の知るかぎりでは、これはほかの世界のどこに求めることもできません。(p.169)
 へぇ~~。
 日本人のサラリーマンが、電車の中で絵入りのエロ小説の載った日刊紙を読んでいるのを見て、外国人がオッタマゲルという話は何度か聞いたことがあるけれど、このような日刊紙もきっと日本ジャーナリズムの天才的発明なのであろう。

 

 

【難しい本】
 むずかしい本の大部分が、 ・・・(中略)・・・ 文章が上手でないか、あるいは、著者が言おうとすることをみずから十分に理解していないかの、どちらかである。これは読者の責任ではなく、本のほうが悪い。たとえば、ある種の学生の理論闘争や、通俗禅問答や、また雑誌・新聞にときどき見かける美術批評のようなものです。こういうものは、日本語としてたいへん悪いばかりでなく、たぶん、書いている当人にも、何を言っているのか、くわしくつきつめれば、はっきりしていないだろうと察せられます。 第二は、悪い本ではなくて、りっぱな本のなかにもむずかしい本があります。しかしそれは、だれにとってもむずかしいのではなく、ある人にとってはむずかしく、またほかの人にはやさしいのです。 ・・・(中略)・・・ 。その理由は、つまるところ、私がその本を求めていない、別のことばでいえば、私にとって少なくとも、いまその本は必要でないという点に帰着するでしょう。(p.208-209)

 

 

【外国での読書】
 大学と直接に関わらない仕事をしていても、適当な手続きをとれば大学図書館を利用することができるはずです。日本語の読むに値する本は、そこにあります。なにも最新刊の 「ベストセラー」 のガラクタを ―― この本がそうでないことを望みますが ――、無理をしてまで読むことはない。それでは時勢に遅れるでしょうか。いや、おくれても、いいのではないでしょうか。どうせ日本国の時勢はめまぐるしく変わるのですから、帰国する頃にはまた別の時勢になっているでしょう。 (p.215)
 今や、海外に住む日本人の総人口は80万人を超えているはず。大きな大学のある街に住めない人々も多いから、近年は、海外から古書店に送料が安くて済む文庫をまとめて注文する人が増えている、という話を聞いたことがある。
 日本にいた時は本などさして読まなかったけれど、海外に長期間住んでいると日本語の本に餓えてくるという心理は想像しやすい。そういう人々も含めて “日本語恋しくなっちゃった派” の人々が文庫版の古書を一括で注文するのだろう。
 私も台湾へ行った折には、台湾の元智大学の図書館 を使わせてもらっている。

 

 

<了>