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 資生堂の会長さんの著作。読書を人生と経営に生かしてきた方だという事がよくわかる著作。2009年9月初版。

 

【疎開先にて】
 父は命と同じように大切な蔵書を疎開用に引越し荷物に入れた。私は疎開先の学校にも転向せず、友達もなく、遊ぶこともないので、おかげであり余る時間を父の本を片端から読むことしかなかった。といっても子ども向きの本は一つもなく、大人のそれもかなり難しい本ばかりであった。(p.18)
 そして、疎開していた所に、資生堂の初代社長になった叔父の福原信三さんが移ってきた。
 福原信三も緑内障でほとんど視力を失い、秘書の安成三郎さんと中学生の私とが信三の買い置きの本や安成さんの求めたあたらしい本を朗読するのだった。
 それは結構単調で大変な日課だったが、実はこの機会に私は本当の読書を学んだのかもしれない。・・・(中略)・・・ 。
 日本の読書は昔から音読であって、黙読は明治以後のことだという。 ・・・(中略)・・・ 。この時期に音読をした体験は結果として代えがたいことであった。(p.20-21)
 音読がどのように効果的だったのかは書かれていないけれど、口で発して耳で聞くと、脳の部位を2ヶ所多く使うのだから、黙読以上の何らかの効果はあるのだろう。

 

 

【『第三の神話』】
 父は親しかった西脇順三郎先生から『第三の神話』を贈られたが、それを読んでシュールレアリズム詩にびっくりした。全く違う種類の言葉の出会いによって作られる驚きは衝撃的であった、(p.28)
 このページ付近には、著者が青年の頃に読んだ著作がいくつも記述されているのだけれど、その中の一つ。シュールレアリズム(超現実主義)っていう単語自体が懐かしい。チャンちゃんも学生時代、現実を超える思索に没頭していた頃、ブルトンに出会っていた。今は現実を超えた世界をグラフィックで描くことができるけれど、言葉を使って現実を超えるっていうのも、結構イケテルんじゃないだろうか。

 

 

【まだ知らないことにフライングする能力】
 内田樹先生 はこうお書きになっている。 ・・・(中略)・・・ 
 教養は、『まだ知らないことにフライングする能力である』 (p.53)
 教養に関するこの表現はイケテル。
 “まだ知らないこと”っていっぱいありすぎるけれど、これを単純に“未知”と表現すると、“ルールを無視して先んじて未知に遭遇しようとする能力”と言い換えることができる。
 今、地球が遭遇している周波数上昇(アセンション)のことを、知的にであれ体感的にであれ、分かっている人々は、魂としての本源に教養が蓄積されている人々なのだろう。“常識というルール(洗脳)を突破して、この地球が宇宙文明に遭遇するまでの魁”をしているのである。
 しかし、教養について冴えた記述をしている内田先生は、地球生命圏にあって、既存の社会学的・学術的思索圏を突破しているようには、思えない。

  内田樹・著の読書記録

     『日本辺境論』  『下流志向』  『大人のいない国』

 

 

【本は、“読むまで気がつかなかった自分の一部”につながる“外部装置”】
 同じように悩み、考えつづけた多くの先人の記録を文字でなぞって消化し、その時どきの自分の考えや体験と合わせて、自分の中で編集することによって、より考えが深まっていく。 ・・・(中略)・・・ 。本は読むまで気がつかなかった自分の一部につながる“外部装置”だと思う。(p.72)
 学生時代に本を読んでいた当時のことを思うと、上記の記述は、「正にその通り」と思うのだけれど、社会人になってノウハウ的なビジネス書ばかり読んでいると、本は、「情報機器としての外部装置そのもの」になってしまう。
 魂や人生に資するのではなく、仕事に直に資するだけのノウハウ本なんかは、本のうちに入らないと思っている。

 

 

【ジャンルは違っても同じ本質に行きつく】
 企業人は食わず嫌いをなるべくしないで読書をすることをすすめたい。業務に関係あるビジネス書を読むことで精いっぱい、と決めてかからないことだ。私は仕事で行き詰まり、どうしても結論を出せなくて考えあぐねていた時に、ふと趣味の世界の考え方を当てはめてみたら、霧が晴れるように答えを見出せたりしたことがあった。それも一度や二度ではなかったのである。
 不思議な気もするが、ものごとを突き詰めようとしていくと、たとえジャンルは違っても同じ本質に行きつくということなのかもしれない。(p.90)
 同じジャンルのものばかり読んでいると、次第に発想が固定化してくるだろう。だから、読書がつまらなくなってくる。
 また、読むジャンルが多様であっても、本ばかり読んでいて体験を軽視していると、やはり発想が固定化してくる。そんなんで読書を何年も続けられる人って、かなり変人の部類に入るだろう。変人に会ってみるという経験を積む目的以外なら、そんな人とは話したくもない。会って話して面白いのは、何と言っても実体験と読書経験が豊富な人である。

 

 

【『木を植えた人』】
 1992年、資生堂が創業120年記念の年を迎えるにあたって、その前年に、何で祝おうかという相談をした。 ・・・(中略)・・・ 。その記念にジャン・ジオノの『木を植えた人』(こぐま社)を全社員に配ることになったのである。この本は世界じゅうの主要言語に翻訳されているから、全社員に同じ物を読んでもらうことができる。(p.78)
 私がこの本に打たれたのは、一つの目的に向かって急がずに絶えざる努力を続ければ、思いがけぬような立派な結果が得られるということだ。(p.79)
 忙しさに振りまわされたり、今進めている仕事に失敗したりすることがあっても、「急がず絶えざる努力」という『木を植えた人』の仕事観が、頭の片隅にあれば何かの支えになるかもしれない。それが言葉の力である。(p.81)
    《参照》   『木を植えた男』 Jean Giono (洋販出版)

 会社の創立記念に本を配るって、かなり珍しい気がする。

 さすがは、「万物資生」の資生堂さん。
    《参照》   『共に輝く 21世紀と資生堂』 弦間明 求龍堂

             【社名の由来】

 

 

【経営における孔子と荘子】
「マーケティング」の講義をされていたウィリアム・レーザー教授が、経営の一番の基礎の部分にフィロソフィー(哲学)、その上にプリンシプル(思考・行動の原理)、さらに上に載っているのがストラテジー(戦略)だとおっしゃっている。孔子の言葉『論語』は ・・・(中略)・・・ プリンシプルに近く、それに比べて荘子がいっているのはフィロソフィー、つまり根源的な哲学なのだと思う。だから、少なくとも孔子を唯一の規範として頼り切ってしまうというのは、物事のある一面的な見方であり、人間の本質に迫りきれないのではないだろうか。(p.96)
 受験の世界史では、孔子も老子も荘子も諸子百家の中の一人と学んでしまうけれど、必ずしも同じ地平に並べることはできない思想なのだということ。
 そもそも日本人が理解している『論語』は、かなり日本人的に理解しやすく美化ないし曲解された『論語』であるらしいことを、下記リンクを辿って確認しておきましょう。
    《参照》   『独走する日本』 日下公人 (PHP)

              【現実が見えなくなっている】

 老子・荘子の考えに触れるにつれて、今の世の中に通用するのは老子であり、近未来の社会に通用するのは荘子ではないか、と考えるに至ったのは、かなり以前のことになる。(p.97)
 荘子は、無用・有用に区別はなく、無用と思えるものにも用があるという考え方をしている。また、地位や境遇の違いも見かけだけのことであり、結局は一つの根源的な「道」に戻っていくと考えている。この場合の「道」は、「ワンネス」を意味しているだろう。まさに現在の地球が向かいつつある「アクエリアス・エイジ」の認識基調を語っていたといえる。

 

 

【ヒンズーの教え】
 バリ島で、荘子と同じ考え方に出会い、考えを新たにしたと書かれている。
 バリ島の村でヒンズーの教えに触れた時である。そこの人々は良い人と悪い人を対立概念とはとらえていない。悪い人がいるから良い人が育つと考えているのである。バリの舞踏劇を見ていると、神様と悪霊の戦いがあってもその結着はつかず、ある時は助け合い、どちらも生き残る。同じように、お寺を作っても彼らは完成させることに執着がない。なぜなら、完成したときから破壊が始まるので、建設と破壊は対立概念ではなく、一つのものなのだ。(p.97-98)
 二元性のいずれか一方に、肩入れするのは、長年地球人をやっていたことで頭が硬くなったオカチメンタイコ人間であることの証拠。
    《参照》   『楽園実現か天変地異か』 坂本政道 (アメーバブックス) 《後編》

              【聖人君子と親鸞の悪人正機説】

    《参照》   『シリウスの太陽』 太日晃 (明窓出版) 《前編》

              【「高次」になるほど、二元論は存在しない】

 

 

【未完の哲学】
 また、日本はむしろ完成する前に放置するそうだ。國學院大学名誉教授の小林達雄氏は、それを縄文文化が持っていた未完の哲学だと書いている。
「縄文文化には融通無碍なところもあります。全部作ってしまうことを目的としないという未完の哲学が息づいていました。完成より作る過程を大切にしていたのです。宮沢賢治が『農民芸術論』で『永遠の未完成、これ完成なり』と言っていますが、日本人には、完成すると終わってしまうことを嫌う傾向があるのでしょう」(p.98)
 昨日、テレビで、姫路城に関する番組をやっていて、その中で、軍事的に見て危険な「格子のない窓」があることについて「永遠の未完成という思想ですね」と言っていた。
 完成したときから破壊が始まるというヒンズーの思想と同じ考え方は、日本史で言う縄文時代以前の太古の地球において共通する概念だったのだろう。
 今、「完成」を打ち出そうとしたら、「陥穽」が先に出て、なるほど、と思ってしまった。
   《参照》   『運命におまかせ』 森田健 (講談社) 《前編》

            【ふたつの幸せ感】

 

 

【読書は不要?】
 すべての情報やデータはウェブ上で得られるので、今さら読書をするこが必要かという意見もあるようだ。
 しかしコンピュータ経由でデータをいかに蓄積しても、その基本となる文脈は得られないのだ。多くの本を読むことによってひとりでに得られる推理力、判断力、構想力のようなものはコンピュータを経由した二次、三次資料からは出てこない。(p.161)
 「文脈は得られない」とは、「知の構築力は身につかない」ということだろう。知は構造化して初めて役立つものになる。
 日本人が総じて読書を軽んじた結果は、下記のように現われている。
 OECDの中学生の世界基準の試験でも、理科や数学の点数が下がっているのは国語力の低下と大きな関係があると見られている。国語能力が低下すれば理科の出題も理解できないのだ。外国語の能力ももちろん自国語の力に支えられていると考えられている。それに日本では、自分で考えて答えをまとめる出題について白紙回答が世界平均よりもかなり多いのだ。(p.163)
    《参照》   『国づくり人づくりのコンシエルジュ』 (土木学会)

              【若い技術者や学生たちに】

    《参照》   『なぜ勉強するのか?』 鈴木光司 (ソフトバンク新書)

 

 

【漫画脳が招く危機】
 先日、政府のある方とお話していると、「自分は漫画世代で、僕は漫画で育った」といって日本の漫画文化をもてはやすようなことをいっていた。その方と会話を続けるうちに、どうも漫画しか知らない世代は(漫画のせいばかりではないと思うが)、シチュエーションをすごく単純化して物事を把握するような傾向があると思うようになった。(p.164-165)
 視覚情報は文字情報より、受け手の解釈や理解の裾野を狭くしてしまう、ということを言っているのだろう。
 コンピューターに蓄える上での二進法による情報量として比較すれば、文字<音声<画像の順に大きくなるけれど、だからこそ、そこから受け取った人間の側に、解釈の広がりとしての余地は狭くなってしまう。
 それに、漫画ばかり読んでいて、様々な意味や概念を有する言葉に出会わず、語彙力が少ないということは、かなり致命的である。限られた意味と簡単な概念だけで生きるという事は、その範囲の世界の外に出られないということであり、多次元へと高度に進化し得る脳の可能性をまったく活用できないばかりか、下手をすると閉ざしてしまうことにだってなりかねない。
    《参照》   『美しくて面白い日本語』 ピーター・フランクル (宝島社)

              【やはり日本人は勉強家だ】

 

 

【ビジュアルと文字が組み合わさってこそ】
 漫画がいけないといいたいのではない。日本の漫画表現のすばらしさは私も承知している。漫画家の萩尾望都さんのお話を聞く機会があったのだが、「日本の漫画は、ビジュアルとともに漢字・ひらがなという文字が同時に把握でき、欧米のコミックとは違う一覧性を持つところが深さだ」とおっしゃっていた。しかもその萩尾さんの壮大なSF仕立てのコンセプトはどう考えても数多くの本に触れてmoto(望都)のイメージを膨らませたものなのだ。(p.167)
 これを読んで、チャンちゃん自身が萩尾望都の漫画から受けたものは、まさに文字によって後に展開していったのであることを思いだした。萩尾望都の漫画を通じて、スケールの大きいロマンと共に、「未知の単語」に出会いこれを覚えたことは、非常に大きい。
   《参照》   『百億の昼と千億の夜』 萩尾望都 秋田書店

 漫画を描く人に、国語力・語彙力がないなら、ありふれた陳腐な凡作にしかならないだろう。

   《参照》   『里中満智子』 杉山由美子  理論社

            【マンガの先にあるべきもの】

 

 

【私の選んだ三冊】
 以前「三冊屋」というブックフェアをやっている書店で、私の選んだ三冊の本もセットで販売していただいたのだが、選んだのはラ・ロシュフコー『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波書店)、ドラッカー『企業とは何か』(ダイヤモンド社)、ノーベル物理学者のファイマン『ご冗談でしょう、ファイマンさん』(岩波現代文庫)の三冊だった。そこにはこうコメントをつけた。
「ラ・ロシュフコーの箴言は人間の真理です。ドラッカーは会社の真理です。ファイマンは人生の真理です。三冊は根底で共通なのです。」 (p.178)
 箴言などという単語がタイトルに入っているというだけで、チャンちゃんなんかはモロにパスしたくなってしまう。そもそも「箴言」なんて意味分かんないもんね。「死んげ~~、ん?」っていう脅迫だろうか。もっとタイトルを面白いものに変えたらいいじゃん、と思う。
 『ご冗談でしょう・・』と言われながら人生の真理を学べるのなら、取っつきやすいし最高である。
 ドラッカーさんだって、岩崎さんが、『もしドラ  を出してくれたお陰で、かなり読者層が広がったはずである。
 書物の題名において「名は体を表さない」ことは良く分かっているから、タイトルで「読む・読まない」を判断したりはしないけれど、それはある程度、読書経験を積んだ人だからできること。ネーミングは大切である。

 

<了>
 

  福原義春・著の読書記録

     『だから人は本を読む』

     『柔らかい生き方をしよう』