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 非常に肩の力が抜ける優れた著作である。タイトル自体が、本質的で正統な運命論の骨子を表現していると思うけれど、記述されている内容には一般常識と真反対のものがかなりある。反対側ばかり巡っていても、結局メビウスの帯上を巡るようなもので、決してデタラメな世界へ導くものではない。
 また内容の一部には、一般的な宗教書に書かれている霊的実相の基盤を引っ繰り返すような真反対の記述もあるけれど、そのことの正否はどうでもいい。要は、より良い運命を生きられればいいのであり、そのためにどう考えどう納得するかはその人次第なのだから。 2007年11月初版。
 この著作のタイトルを英訳するなら、 “ Let it be.” という叡智の言葉になるだろう。
 この読書記録は、チャンちゃんにとっての渡りのための飛び石のようなものだから、たまたまこのブログを見た人が、間を繋げるたいのなら自分で全体を読んでみる必要があるだろう。

 

 

【幸せを手放し続ける】
 著者は、エリートコースを棒に振って会社を辞めてしまった。しかしその後、運命が良くなっている。そんな状況を記述した後、以下のように書かれている。
 幸せを手放し続ける行為が、実は本当に幸せな状態をもたらすのです。だから幸せを手放すころから始めなければいけないのです。なぜそうなのか、そこはこの本を読んでいくうちに明らかになるはずです。まさに今の幸せ感を捨てることから始まるのです。(p.16)
 手放すことが優れている例えとして、カヌーに乗りパドルで舵をとりつつ川を下るよりも、タイヤに乗って流れに身を任せた方が、早くゴール地点に到達すると書かれている。「今ある幸せ」 というのは、カヌーに乗りパドルを握っている状態に相当する。それより、運命の流れに身を任せてしまったほうが、楽だし気持ちがいいし目的地点への到達も早い。
 しかし、誰でも今ある幸せを手放しさえすれば、自動的に、もっといい幸せな状態になると言っているのではない。後述されているけれど、手放すことと並行して “根源的な問いを問う” という重要なポイントがあるのである。これがカヌーに代わるタイヤに相当するものといえるだろう。

 

 

【好きなことをしても幸せになれない】
 「えっ? 好きなことをしても幸せになれないなんて変です」
 という声が聞こえてきそうです。世の中のしあわせについて書かれた本で、「好きなこと」 をまったく勧めない本はないからです。
 でも、これを読んでいるあなたは、好きなことが見つかりましたか? むしろ見つかっていなくて、それを悩んでいるのではないでしょうか?
 「好きなこと」 というのは、視点が自分にあります。そこには 「自分から積極的に何かをしていきなさい。周りに流されてはダメですよ」 という意味も隠されています。これがかえって幸せにブレーキをかけるのです。 自分というものくらい分からない存在はありません。分からないのに分かった顔をして 「これが好きだ」 などと言い出し、本当の幸せ感から遠ざかるのです。(p.17-18)
 自己啓発書を読み過ぎてきた人にとっては、かなりセンセーショナルな記述に思えることだろう。
 ここでいう 「好きなこと」 とは、パドルを握ってカヌーで川下りすることに相当する。

 

 

【ふたつの幸せ感】
 ここで、ふたつの幸せ感が浮き彫りにされました。従来の幸せ感は、山頂を目指すものでした。「好きなこと」 や 「掲げた目標」 に向かって進んでいくものでした。 ・・・(中略)・・・ しかしここで提案する新しい幸せ感は、「目指さないこと」 なのです。中腹で降りてくることなのです。(p.21)
 山頂を目指さないという提案は、 「満つれば欠ける」 とか 「亢龍悔いあり」 とか 「足るを知る」 などの諺を思い出させる。
 山頂を目指すのは、欧米流の “成功哲学” であり、
 山頂を目指さないのは、日本的な ”幸福哲学” である。
 山頂を目指さないからと言って、永遠にナンバー1にならないことを目指せと言っているのではない。
 山頂を目指さないという深遠なる智恵の真相(深層)を看破することによって、成功という大地を押し流して地滑り的な変貌としての幸福がもたらされるのである。

 

 

【新しい幸せ感への第一歩】
 本来人間は、何にでもなれるはずでした。それを学校の教育でどんどん細分化され、小さな枠に押し込められました。
 人は生まれたとき360度の可能性があったはずでした。スケジュールの無い生活に入ることは、その状態に戻ることなのです。すると地に足がつかなくなります。
 「こんなことをしていていいんだろうか」
 とも思い始めます。それが実は、新しい幸せ感への第一歩なのです。(p.25)
 ひきこもりの有用性を指摘しているかのような記述であるけれど、著者はひきこもっている訳ではない。
 何はともあれ、現代社会が仕掛けている様々な常識を覆してみる必要がある。新発見というのはそのような過程で見出されるものであり、常識人という平平凡凡とした人々ほどつまらない人生存在はないだろう。
 ここまで達観できない人々は、浮遊生活をやや怖れつつ過ごしているのだろうけれど、それでは中途半端である。怖れは愛をサバ折りにしてしまう。運命に愛されるためには、常識という名の牢獄の鉄格子をサバ折りにしてそこからスンナリ出るのが先である。

   《参照》  『地球人革命』 松久正 (ナチュラルスピリット) 《前編》

           【地球社会で築かれてきた「常識」と「概念」で生きてはダメ】

 

 

【運命決定の受け入れは・・・】
 盲師派推命占術という占いによって、自分自身の過去をズバスバ言い当てられた経験が書かれている。
 しばらくの葛藤の後、私は運命が決まっているということを受け入れました。
 するとどうでしょう・・・。矛盾するような表現ですが、運命が好転してきたのです。
 これはどういうことなのでしょうか・・・・。後の章ではっきり書きますが、運命の決定の受け入れは、いい運命の流れそのものの始まりなのです。(p.34)
 運命に関しては8割がた先天の命として決まっているという人々が多い。稀に、先天世界の道と炁のメカニズムを記した 『牛集正経』 を霊読し、先天の命を変更できるようになったという人もいるけれど、そういう特殊な例は、ここでは放っておく。
 とにかく、運命は決定していると受け入れた。
 なので私は、夢や希望を未来に託してはいません。 (p.43)

 

 

【性格を変えても・・・】
 六爻占術の開発者であるトラさんと、盲師派推明占術を伝授されたダンさんは次のように言います。
「性格を変えても運命は変わりません。しかし、運命を変えると性格が変わるときがあります」・・・と。(p.66)
 「運命と性格は不可分である」 という文章を読んだことがある。学生時代に人文学系著作の中で読んだと記憶しているけれど、「それはそうだろう。運命は性格に支配されているはずだ」 とキチンと考えもせず安易に受け入れていた。しかし、様々な経験してきた今は、この著作の記述の方が正しいのではないかと思えてくる。
 宗教的、道徳的な人格陶冶というのは、苛烈な運命に遭遇しても盤石であるとは言い切れないものだし、「恒産なくして恒心なし」と諺で言われるように、性格だってさまざまな縁に触れる人生状況下においては確かなものとはいえないからである。「地位が人を作る」 という表現の中には性格まで含まれる場合があり得る。

 

 

【外見にこだわろう】
 外見はあなたの運命を変えます。あなたの魂の外側に当たるからです。
  ・・・(中略)・・・ 。
 私が六爻占術を知ることになった2001年、外見がキーであることに気付きました。運命の変更は、内側からはあり得ないことを知ったからです。髪型を変え、お洒落な服に変えました。 ・・・(中略)・・・ するとどうでしょうか、20年間にわたりトントンだった会社の売り上げが伸び始めたのです。(p.91)
 地表に生活場所を置く現在の地球のような潜在意識をダイレクトに活用できていない文明は、表面意識によって判断する故に表面的なことが大きく影響するけれど、オカルティズムや魔女の世界にとっても、象徴=実在なのだから、どんな小物であれ外に現われている様相は、やはり影響力を持っている。
 内面に関する気高い精神論は、高度な文明へ向かう上で必要なものだけれど、「外見はどうでもいい」 と言ってはいけないし、言えもしない。

 

 

【私は 「原因」 ではなく 「結果」】
 自分で幸せになることなど、できないのです。人は100%他にゆだねられています。
 このことを本当に理解したとき、世界がひっくり返るはずです。主人公は自分ではなく、自分以外のすべてだったからです。私以外のすべてが私を形成しているのです。だから、私は 「原因」 ではなく、「結果」 だったのです。(p.88)
 日本人がよく使う 「お陰さまで」 とか、「自ら計らわず」 という表現は、すべては関係性の上に成り立つという(五行説の)認識を土台にしていたはずである。
   《参照》   『不思議の科学』 森田健 (同朋舎)
            【 『わたしは誰でもない』 】
   《参照》   『運命を変える未来からの情報』 森田健 講談社
            【内と外を繋ぐ】

 上記に続いて以下のように書かれている。
 最新の脳科学によれば、意識は無意識の信号を0.5秒遅れて受信しているそうです。つまりすべては無意識に行動していて、その結果だけを意識しているのです。「私は結果」 だと言っている理由はここにもあるのです。(p.88)
 運命が定まっていることの根拠を理屈っぽく考えたい人は、この脳科学の知見が使えるだろう。生年月日による星の配置に従って、無意識が選択的に受け取る情報傾向が定まってくるのだから。