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 近年、日本社会に増加している、学ばない子どもたち、働かない若者たちに関する評論。地球人の意識で読めば、内容のある評論なのだろうけれど、高度に進化した社会の視点で読めば、「必要ないじゃん」と思える内容である。2007年1月初版。

 

【勉強を嫌悪する子どもたち】
《日本の子どもたちは小学校高学年から中学校・高校にかけて、大多数が学校の勉強を嫌悪し、勉強から逃走しています。かつて日本の子どもは、世界のどの国よりも勉強に意欲的に取り組んでいましたが、今や、世界でもっとも勉強を嫌悪し、勉強しない子どもへと転落しています。》(佐藤学『学力を問い直す』岩波ブックレット)(p.13)
 このブックレットに掲載されているデータは99年までの数値だという。15年前でこの状況なのだから、今や推して知るべしである。

 

 

【意味が分からなくても平気】
 学生によく読まれているファッション雑誌の任意の1ページをコピーして学生に配布して、「このページの中に知らない言葉があったら、マーカーでしるしをつけてください」というアンケートを取ったことがあります。結果を見せてもらって驚いた。凄いんです。そこらじゅうマーカーだらけで。(p.25)
 ファッション誌には、いろんな外国語がカタカナで表記されているのだろうから、チャンちゃんでも分からない語はあるだろう。しかし、常に読んでいる読者たちがマーカーだらけということは異常である。
 つまり、この方たちは意味が分からないことにストレスを感じないということです。(p.25)
 彼らは、ファッション雑誌を、見ているだけであって読んでなんかいないのだろう。言葉の意味は不問なのかも。しかし、それでは、確かに知力は発達しない。
 著者は、このような若者たちの実態を、以下のように解釈している。
 選択肢は二つある。一つは、意味が分かるまで調べて、「無意味なもの」を「意味あるもの」のカテゴリーに回収する。もう一つは、「無意味なもの」があっても「気にしない」という心理機制を採用する。弱い動物はショックを受けると仮死状態になります。そのように心身の感度を下げることで、下界からのストレスをやり過ごすというのは生存戦略としては「あり」なんです。おそらく、現代の若者たちも「鈍感になるという戦略」を無意識的に採用しているのでしょう。それで学力低下という現象も部分的には説明がつくんじゃないかと思います。(p.26)
 では、なぜ最近の若者は、二つある選択肢の内、前者ではなく後者を選ぶようになったのか? という問題が残る。こっちの方が根本的である。
 この点については、近年の子供たちは、生まれた時既に、生産者としてではなく消費者としての環境下にあったから、という解釈が示されているけれど、そのような社会科学的な解釈とは別に、生物化学的な薬品を用いた知能発達の抑制が行われていると考えることもできる。実際に知能を抑制する化学薬品がこの世に存在しているのである。であれば、それをワクチン接種などを通じて小学生の段階から全員に対して投与することが可能である。現在進行形の若者の学力低下の本当の原因はこれだと思っている。
 「闇の勢力」たちが、知能抑制薬品を用いているという動画は アルシオン・プレアデス <その2> で示したサイトの中にある。(全部見てほしいから、あえてその中のどれかは書かない)

 

 

【労働から入ったか、消費から入ったか】
 今の子どもたちと、今から30年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。・・・中略・・・。
 子どもが家族という最小の社会関係の中で、最初に有用なメンバーとして認知されるのは、家事労働を担うことによってだったわけです。家族に対して、わずかなりとも労働力を提供し、それを通じて、感謝と認知をその代償に獲得し、幼い自我のアイデンティティを基礎づけてゆく。そういうところから子どもの社会化プロセスが始まった。(p.38-39)
 労働からではなく、消費から入った子どもたちが認識する社会は、常に、与える(労働の)場ではなく、取る(消費の)場なのである。
 近年の何事につけ裁判に訴える若い親の存在も、結局のところ先んじて社会に貢献する労働観が薄れ、消費者としての意識が強くなってきたからと言える。
 生れた時から消費者の立場であれば、作るための知力や技術力など必要ではないし、作る側の苦労に対しても想像力など及ばない。比較相対的にどちらの製品がいいか選択する程度の薄っぺらな能力しか育たない。ブーブー言うモンスターペアレントやクレーマー意識の起点もここに見ることができる。

 

 

【「不快」というカード】
 現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。(p.54-55)
 (かつての)母親の家事労働に対する敬意は今の若い人たちが想像できないほど大きく、重いものだったのです。
 けれども、家庭の電化が進んで、主婦の家事労働は劇的に軽減されます。育児を除くと、家事のうちに「肉体労働」に類するものはもうほとんど存在しないと申し上げてよいでしょう。となると、子供から手を離せるようになった主婦たちが家庭内において記号的に示しうる労働とは何でしょう?
 それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。
 たいへん悲劇的なことですが、現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は、夫の存在それ自体に耐えていることなのです。・・・中略・・・。これらの不快の代償として、妻たちは家産の50%について権利を主張できる。(p.55-56)
 社会で働いている男性の苦労も知らないで、家事労働から解放された女性たちは、余白の増えた人生を活用したいがために、女性は男性ほど自由ではないと「不快」のカードを切りたかったのだろう。この状況を利用したフェミニズム運動の深謀遠慮は「家庭の破壊」という点にこそあったのだけれど、女性の心に「愛」と「感謝」の代わりに「不快」という概念に置き換えてしまえば、目的は容易に達成できたのである。
    《参照》   『地球隠れ宮1万5千年のメッセージ 幣立神宮が発する日本の『超』中心力』 江本勝・春木伸哉

              【愛と感謝は放射能を無化する】

 意識の進化を約束する「愛」と「感謝」ではなく、意識の退化を選択して「不快」というカードを強く握り絞めた親たちは、社会を破壊するモンスター・ペアレントとなって、末永く日本社会を蝕み続けるのである。

 

 

【階層ごとにリスクの濃淡がある】
 リスク社会では努力と成果のあいだの相関関係が崩れてくると先ほど申し上げました。でも、実際には、この相関関係は全社会で均一に崩れるわけではありません。それは局所的にはいまだ活発に機能しており、ある階層において集中的に崩れています。つまり、リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく、階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして、自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは、いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。(p.83-84)
 端的にいえば、下層の人々ほどリスクの高い社会になっている、ということ。
 意欲格差ということは以前から言われていたけれど、成功できない状況の親の元で育っている子供は、意欲を持てない傾向にあるということは、誰しも認知しやすいことである。
    《参照》   『世界が日本を必要としている』 高橋乗宣  ビジネス社

              【意欲格差】

 

 

【階層間の文化資本(教養)格差の拡大】
 大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその後れを取り戻そうとする。でも、自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから、階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。(p.198)
 下層の人々には経済的にも余裕がない傾向があるから本など買って読まないだろうし、勉学を軽んじてきた実績によって読解力があるという保証もないから、仮にこの本を古書店で見つけ安価で手にしたとしても、内容を理解できるかどうかもわからない。これも下層定着化の顕れとして起こりそうなことである。
 社会階層ごとに価値観や行動規範の違いは当然あるものだけれど、かつてはハイソ(ハイ・ソサイアティ=上層階級)に憧れる人々も少なくなかったらしい。しかし上下二極の径庭が広がり過ぎると、憧れよりも唾棄の感情が露見するようになるだろう。こうなると、教育軽視から教育否定にすらなりかねない。
 実際のところ既にその様な状況になっていることが、111頁以降に書かれている。その箇所は、書き出さないけれど、チャンちゃんにとって一番ショッキングだったのは、まさにこの事実である。文化資本には差別化する機能があるとの考えから、教養否定⇒下層独自の文化資本(教養)に依拠しない自信の構築⇒教育の否定、になるらしいのである。