《前編》 より

 

【労働からの逃走】
 アルバイトを何十人か雇っていて、その中になかなか優秀は若者がいたので、「正社員にならないか」と誘ったら、断られたそうです。アルバイトならいつでもやめられるけれど、正社員になったらやめにくくなるからいやだというのがその理由。
 もう一つは知り合いの若いサラリーマンの話。仕事ぶりを買われて、上司から新しいプロジェクトの責任者になってくれと頼まれたら、彼は会社を辞めてしまいました。責任あるポストに就いたら自由がなくなるというのが本人が告げた理由でした。仕事を抜け出してコンサートに行ったり、繁忙期に有給休暇を取って旅行に行ったりできなくなるから。
 そういう自由のほうが「出世」よりも大切なんだと、彼らは言います。・・・中略・・・。
 自己決定したことであれば、それが結果的に不利益をもたらす決定であっても構わない。
 ある種の「自己決定フェティシズム」です。(p.117-118)
 「自己決定フェティシズム」ではなくて、時間その他の諸条件によって自分が支配されることが嫌というだけだろう。それに、若い世代は若くない世代ほど、お金に執着していないし、お金の価値や威力を十全に認識していないという以前に不問状態で流しているから、労働からの逃走が容易なのである。加えて、生れた時から心身で実感できる共同体のような相互扶助組織を知らない若者にとって、労働の社会的・人類学的意味など鼻からないのだし、将来的な生活にまで思念を及ぼすこともないのである。
 大人世代から見れば、若者たちはまるで未来に対するアパシー(無気力)状態のように見えるかもしれないけれど、若者たちの深層意識には、現状のような社会がこのまま持続するという思いもないはずである。

 

 

【消費活動の基本は、等価交換=無時間】
 消費活動の基本は等価交換です。「等価」とは要するに「無時間」だということです。・・・中略・・・。等価性というのは時間を捨象したときにはじめて成立する概念なのです。(p.136)
 既に豊かな社会を実現していた日本社会に生まれた時から、身近で働いている親の姿を見ることもなく、単に消費するだけの存在として生きてきた若者たちは、無時間、つまり時系列的な思念が脱落しやすい。著者の記述に則して考えれば、若者たちは、将来という時系列の先にある自分を考えることが得意ではないと言える。
 若い世代は将来に対して無関心である。特定機密保護法案などというものは、若者たちの将来に対してあまりにもひどい現実を突きつける猛毒法案なのに、デモに参加しているのは殆どが大人ばかりらしい。

 

 

【労働の人類学】
 労働の主体が自分のつくり出した価値の一部を他者に贈与しなければならないと感じるのは、労働主体として立ち上がったときに、すでに他者からの贈与を受け取ってしまっているからです。気がついたときにはすでに自分は「債務者」である。だから、その「債務」を清算しなければならない。この「始原の遅れ」の意識がオーバーアチーブすることを私たちに義務づける。
 これが労働の人類学です。
 ・・・中略・・・・。労働は等価交換ではありません。
 労働は、始原の遅れという時間意識の中で営まれるものであるから、無時間の消費活動とは、確かに一線を画する。生まれた時から消費活動という無時間意識に浸っている若者は、必然的に、時間意識のレール上に乗る労働の人類学からも脱線することになる。

 

 

【消費者マインドが作る「教育の崩壊」】
 今日の教育現場では、シラバスという学習内容を記述したものを作成する必要があるらしい。
 何月何日にこれこれのことを教えるとシラバスには書いてあるのに、先生がそれを教えなかった場合、学生たちは「これは契約違反である」と大学にクレームをつけることが許される。
 これは高等教育の自殺の一つの兆候だと私は思っています。(p.149)
 消費者マインドに侵犯された学生や父兄は、「シラバスの内容を確認した上で、等価交換として授業料を納付したのだから、その通りに教えろ」ということなのだろう。如何にも教養のない父兄が言いそうなことである。
 シラバス順守は教育の自殺になるという主張について、著者は以下のような実体験例を記述して教育の本質を説明している。
 著者が合気道を始めた時、先生からその動機を尋ねられ「喧嘩に強くなるためです」と答えた。
それに対して、
 先生は「君が私について学ぼうと思っているものとは違うものを君は私から学ぶことになるだろう」と宣言し、僕はそれを聞いて、「この人を師としよう」と決意した。これはよく考えるときわめて非合理的な判断ですね。・・・中略・・・。
 でも、この非合理のうちにこそメンター(指導者)の教育的機能は存するのです。自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」まま受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する。そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができます。
 ですから。一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができます。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにあるからです。(p.152-153)

 

 

【無知とは】
 無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。
 僕が今日ずっと申し上げているのはこのことです。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。(p.154)
 等価交換を旨とする消費者マインドは、その時点での等価交換を成立させることしか念頭にないから、経時的変化の中にある価値を認めることができない。
 故に、消費者マインドをピッカピカに体現した無知な輩であるモンスター・ペアレントによる教育破壊に歯止めがかからず、労働を軽視する風潮に改善がみられない。

 

 

【『スターウォーズ』に見られる師弟関係】
 オビ=ワン自身の師匠のヨーダに対する敬意は少しも変わらない。だから、弟子のアナキンに離反されたあとも、オビ=ワン自身は成長を続けることができる。・・・中略・・・。自分の中にとうとうと流れ込んでくるものを受け止めて、それを次の世代に流していく。そういう「パッサー」という仕事が自分の役割だということがわかっているということです。
 それに対してアナキンは「俺は師よりも強い」という自信を得たときに「ドア」を閉じてしまう。自己完結してしまう。自己完結した「近代的自我」として自立してしまう。そして、近代的自我であるアナキンは、前近代的な師弟関係に支えられたオビ=ワンに破れるのです。
 よくできた話じゃないか、と僕は思いました。ジョージ・ルーカスもなかなかわかっているじゃないか、と。どうしてアメリカ人なのに「こういうこと」がわかるんだろうと思ったら。ジョージ・ルーカスにも「師匠」がいたんですね。
 黒澤明がそうなんです。そう考えたら、『スター・ウォーズ』が黒澤へのオマージュだということが分かりました。驚かれるかもしれませんけど、『スター・ウォーズ』の元ネタって、黒澤明の『姿三四郎』なんです。(p.179-180)
 オマージュとは、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。
 ヨーダが「さいづち和尚」、オビ=ワンが矢野先生(加納治五郎)、アナキンが三四郎。
 沼に首まで浸かった三四郎に「おまえのような馬鹿は死んでしまえ」と叱りとばす和尚は、『エピソード5』でルーク・スカイウォーカーが沼に半身浸かって「フォース」の訓練をするときのヨーダの叱責にそのまま再現されています。(p.180)
 モンスター・ペアレントは、アナキンやルークに該当するわけだけれど、これが理解できる程度の読解力はあることを期待しよう。その期待ですら満たされないのなら、もう何をかいわんやである。
でも言う。「おまえのような馬鹿は死んでしまえ」
 
【『二十四の瞳』に見られる教育像】
 木下恵介の作品で、高峰秀子が大石先生を演じていた映画について言及されている。
 子どもの人生にまったくコミットできないで、ただおろおろして、泣くだけの大石先生なんです。
 それが理想の先生のように描かれている。
 今、この映画を上映したら、小中学校の子どもの親たちはみな怒り出すだろうと思うのです。「全然教師としての責任を果たしていないじゃないか」と。絶対、そういう言い方をすると思います。
 でも、重要なのは、この「全然教師としての責任を果たせない先生」が戦前の日本ではちゃんと教育者として機能していたという事実のほうです。・・・中略・・・。
 昔は先生が立派だったということを言う人がいますけれど、僕はそれは違うんじゃないかと思うんです。大石先生なんか、今の小学校に連れてきたら、たぶんあっという間に学級崩壊してしまうほどに指導力のない先生です。でも、そんなか弱い女の子が理想の教師たりえた。そういう師弟関係の力学がちゃんと昭和の初めまでは機能していた。個人の力量じゃなくて、制度としてきちんと機能していた。
 これはすごく「燃費のいい」教育方法だったと思います。(p.181-182)
 師弟関係を尊び、目に見える成果を直ちに要求しない制度(教育方法)だったからこそ、大石先生のような先生でも、立派に子どもたちを育て上げることができたと言っている。
 教科内容に通暁し、教育技術に卓越していれば教師として機能するが、力がないと教育できないというふうに考えた。それが「ボタンの掛け違い」だったと思います。(p.183)

 

 

《後編》 へ