《中編》 より

 

【強者と弱者を分ける背景:相互扶助組織の有無】
 「銀の匙をくわえて生まれてくる人間」というのは、生まれた時すでに無数のステイクホルダーたちのネットワークに絡め取られている人間のことです。彼らのアドバンテージは、主に彼らが自己決定を放棄したことの代償として提供されたものであり、彼らの属する「強者連合」が彼に期待している役割を遂行している限り、彼が犯すリスクは集団全体がヘッジしてくれる。そういう相互扶助組織の中にビルトインされている人間が、今の日本の強者たちを形成しています。
 その反対の極に社会的弱者がいます。弱者とは端的に言えば「相互扶助組織に属することができない人間」のことです。獲得した利益をシェアする仲間がなく、困窮したときに支援してくれる人間がいない人間、それがリスク社会における弱者のあり方です。(p.103)
 日本に限らず、世界中がこうである。
 チャンちゃんがブログで頻繁に書いている「闇の権力」は、まさにレプティリアン血族という相互扶助組織によってその紐帯を確かなものにしている連中である。

 仮に「強者連合」の一族として生まれてきても、自立だとか自己決定だとかいう言葉に拘って自我を屹立させると、強者連合による庇護を失い、弱者の側へ転落するのである。自立という言葉は、確かに人間が成長する上で重要な意味を持つけれど、既存の共同体(最小単位は家族)の崩壊を目的に「自立」を利用するような勢力(フェミニズム運動)は、明らかに日本のみならず世界中の社会崩壊を目的としてそれを主張してきた。
 親戚縁者に社会的強者がいるなら、コネが効く地方公務員の就職に関して有利だろう。そのような血族という相互扶助組織の一員であれば、全く能力などなくても地方行政職など容易に勤まるのである。逆にそのようなバックグラウンドがなければ、民間企業が疲弊した今日の社会にあっては、弱者の側に転落し経済的に困窮するだけである。
 このような社会構造を変えるためには、脱貨幣経済社会の実現を目指さない限り本質的な解決は無理なのだけれど、突き詰めれば、強者連合こそが貨幣経済社会のステイクホルダーなのである。故に二極化は進むところまで進むしかない。これはもう完全に不可逆のプロセスである。

 

 

【「迷惑をかけ、かけられる」関係を拒むと、社会的降下のプロセスに入ってしまう】
 「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑わかけていないんだから、ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。
 たしかに、その人は、誰にも迷惑をかけていないのでしょうが、それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく、他人から迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので、「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって、人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。(p.107)
 経済的に困窮してくると、自発的に人との関係を狭めてゆくようになってしまう。冠婚葬祭など、莫大な費用が必要である。かつての日本社会は冠婚葬祭こそが主たる経済のモーターだったのだけれど、格差が進行した今日では、冠婚葬祭など、経済的な負担が大きすぎるから「困る」「大変」「イヤ」「無理」という人々が増えている。
    《参照》   『第三の道』 糸川英夫 (CBS/ソニー出版) 《後編》

              【日本の文化とインドの文化】

 故にこそ、社会意識を変革することこそが必要なのである。社会意識を変革しないまま格差社会を生きているなら、先々隘路に入るしかなくなってしまう。即ち、親の経済力下で生きているうちから「ほっといてくれ」を常用しつつ、フリーターやひきこもりをやっていたら、先の未来は当然のことのように、孤独・孤立・困窮という人生にならざるを得ないのである。

 

 

 

【下流社会を救済せよ】
 このような近未来社会を先んじて救おうと少しでもまともな行政を志すトップがいるなら、担当行政圏内の引きこもりやフリーターの実態を数量として正確に把握した上で、彼らの意向を聞き取り、試行錯誤しながら彼らの相互扶助セイフティーネットを作ってゆくべきなのである。現実がこのような二極化の止まらない社会状況であることを認識せず、ましてや高度成長期のような箱ものばらまき行政をするだけしか脳がないなら、完全に時代錯誤の老害政治である。利権を握る欲心しかなく、病巣を深めている現在の社会状況を考えたこともないような愚か者は、せめて地方行政の選挙に立候補すべきではないと思うけれど、往々にして欲心と教養は反比例するものだからどうしようもない。
    《参照》   『ガンジー 奉仕するリーダー』 ケシャヴァン・ナイアー (たちばな出版)

              【行政は弱者を放置する】

 

 

 

【「自立」と「孤立」】
 自己決定・自己責任というのは裸の自己として、孤立無援で社会に立ち向かうということです。百%のリスクを引き受ける代わりに、獲得された利益もまた誰とも共有せず、百%独占すると宣言した主体が「しなやかで、たくましい個」として称揚される、という構図です。
 このような「孤立した人間」を「自立した人間」として自己形成のロールモデルに掲げるということが、だいたい80年代半ばくらいからフェミニズムとポスト・モダニズムに支援されるかたちで日本社会全体でしだいに合意を得て行きました。「自立」と「孤立」の間には実際には千里の径庭があるのですが、そのことを指摘した人はほとんどいません。(p.108)
 「自立」と「孤立」が長短の裏表になってしまい、その社会的な陰影が強烈なものになってしまう最終的な根源は、やはり貨幣経済という社会構造にあるだろう。利益=貨幣=貨幣経済社会を前提とした表が「自立」で、裏が「孤立」なのである。
 熱帯・亜熱帯域の食物が豊富に実る社会では、男女が共に働き、物々交換により平和な社会は実現していた。自立も孤立も語られる必要のない社会だったのである。今日のように、技術が進化した段階で脱貨幣経済を実現するには、貨幣(≒エネルギー利権)を支配する者達の全権放棄が前提である。
 アセンション問題に意識が向いている人々にとって、そんなことは余りにも常識なことなので、彼らは、世界的な二極化の深まりは、陰極まって陽に転ずる(脱貨幣経済社会実現)のための過程にあるからと捉えている。実際のところ、今日のような状況に至った段階における最終的な解法は、「貨幣経済社会の終焉=脱貨幣経済社会の実現」、しかないだろう。しかしながら、アセンション問題なんて一切眼中にない人々は、明確な解法を提示できないまま、事後解釈に留まってウダウダ言い続けているだけである。
 アセンションは、意識の進化によって牽引される。脱貨幣経済社会という解法に意識が向かないということは、社会を変革するパワーにならないと言うことなのである。多くの人々が脱貨幣経済社会を意識しイメージするなら、その実現は早いだろう。イメージできなければ、そのような社会は実現しない。多くの人々にとって現状のような苦しみの多い社会が続くというだけである。

 

 

【捻じれを矯正できない人類社会】
 自己決定・自己責任論の立場に立つと、弱者は弱者であることの自己責任を自分で引き受けなければならない。もちろん自己責任を引き受け切れないから、そういう「余計な仕事」は行政が引き受けるべきだということになります。自己決定・自己責任と高度福祉社会は、実は背中合わせなんです。(p.200)
 「自分は弱者にはならない」と思っている人がどれほどいるのかわからないけれど、生涯にわたって自己責任・自己決定を引き受けることのできるような健康で「強い主体」でい続けることが可能と考えることには、やはり無理がある。「強者である間の自分は自分で面倒見るけれど、弱者になったら国が面倒みてね」って、かなり違和感がある。根本的にズレてる感じだし、都合よすぎるだろう。
 自己決定・自己責任は聞こえがいいけれど、全体で見ればコストの高い社会を作ることになってしまう。貨幣経済社会下で自己決定・自己責任を言うと、どうしてもそうなってしまうのである。
 実は、脱貨幣経済社会を実現できるような、高度な意識状態にある人々が集う社会には、弱者はほとんど存在しないのである。医療技術が進化しているだけでなく、“戦争をしながら障害者を守る”というような根本的に捻じれた概念など、容易に一蹴しうるほどに意識が進化しているからである。
    《参照》   『プレアデス星訪問記』 上平剛史 (たま出版) 《前編》

              【諸悪の根源】 【神の力を招く方法】

              【階級制度と貨幣制度は不要】
    《参照》   『プレアデス星訪問記』 上平剛史 (たま出版) 《後編》

              【障害児に関する医療】

 過去や現状から延長するようにして未来を模索するより、すでに実現している未来社会からダイレクトに学ぶべきである。人間には本来そのような能力が備わっている。アセンション問題を認識している人々というのは、未来から受け取った社会のあり方を地球上に根づかせるべく、その雛型を先んじて降ろしている人々である。意識の進化(アセンション)を前提としない社会救済は、本質的な救済になどなりえない。

 

 

【「支え合う社会」の再構築】
 ポスト・モダン以降、「みんなで仲良く支え合って生きる」という、人間にとってほんとうにたいせつな生き方の知恵を私たちは文字通り弊履を捨つるがごとくに棄ててしまったから、こういう流れを作ったことについて、僕たちの世代には重大な過失責任があると思っていますので、他責的な言い方はできないんですけれど。でも、この流れを補正して、「支え合う社会」をもう一度構築しないといけないと僕は思っています。(p.203)
 ニートやフリーターが多数存在している現状からすると、「支え合う社会」の構築なくして将来の社会的疲弊は免れないことなど明白である。
 「支え合う社会」実現の意識改革用として、著者は、漱石の『坊ちゃん』を題材にして、以下のように書いている。
 『坊ちゃん』の主人公はお父さんにもあまり愛されていないし、兄からも絶縁状態で、結局は「清」というばあやだけがすべての支えですね。・・・中略・・・。昔の日本の中には家族の中に家族ではない人たちが乳母とか書生とかばあやとかいうかたちで入って、そういう家族外の人たちが「メンター」とまではいきませんけれど、親に代わって子供の基本的な生理的な欲求をちゃんと満たしていたということはあると思うんです。(p.204)
 戦前には、狭い家の中に共生する人が何人かいたのが普通だったらしい。今から70年ほど前の戦時中なら、疎開でいろんな人が共に住んでいたはずである。その時代を実際に体験していた人の中には、共同生活が嫌だったと言う人もいるのだろうけど、メリットだってあったはず。
 ダイアン・レインが主演した『トスカーナの休日』という映画は、日本でも人気のある映画だったけれど、この映画はまさに血縁者以外の人々が集まって暮らしてゆくという幸福感に満ちた映画である。イタリアのトスカーナにまで移住しなくても、日本国内でそういった共同生活を始める人々は、必ず増えるはずである。
    《参照》   『クリスマス・ボックス』 リチャード・P・エバンス 講談社

              【同居に思うこと】

 長期間、海外を旅してきた経験のある人なら、相部屋のドミトリーなんて普通のことだから、国内でシェアハウス生活をすることに何の違和感もないだろう。彼らが横につながって、土地や家屋の提供者がありさえすれば、「外国で“外こもり”するより、国内で“内こもりの”共同生活をしよう。外国人もOK、カモン」みたいなノリで自給自足の田園生活を始めることも可能かもしれない。
 ニートがニートになってしまうのは、要するに「世の中が冷たい」と彼らが思っているからです。ですから、「世の中、それほど冷たくないよ」ということをアナウンスしてあげて、実際に手をさしのべれば、そこからゆっくりとでも事態は変わってくるんじゃないか、と。(p.209)
 チャンちゃんには、山梨県甲斐市という富士山の良く見える風光明媚な所に耕作放棄地があるから、無償で提供しますよ。田んぼも無償で。3,4人集まれば、ホームセンターで1×4の角材を買って来て材料費2万円程度で共住可能な小屋などすぐに作れるでしょう。
 まあ、どうせなら、下記リンクのコメントに書いたように、滝沢さんのプロジェクトに協力すべく、山梨県の八ヶ岳に移住するという手もありますよ。
    《参照》   『宇宙のヘソ富士山と共にアセンションせよ』 滝沢泰平 (ヒカルランド) 《後編》

              【不二阿祖山太神宮(ふじあそやまだいじんぐう)】

 

 

<了>

 

  内田樹・著の読書記録

     『日本辺境論』

     『下流志向』

     『大人のいない国』