《前編》 より

 

 

【日本とインドの子供たち】
 インドの中でお目にかかる、かの有名な「バクシー」も子供たちの働いている姿の一つにすぎない。
 日本の子供は、今のままでいいのか、という疑問を、こういう光景を目前にして考えない人がいたとしたら、神経が切断されている人に違いない。
 彼我の子供に違いをひと言でいえば、その「生産性」にある。
 インドの子供たちは、日本の子供たちより、はるかに生産性が高いといえる。
日本の子供は「生産性」はゼロに等しく、「消費する人間」としてしか考えられていない。(p.106)

 だから、日本では子供の数を少なく産む。
 負の生産性だから、極小がよい。
 インドは反対である。
 「貧乏の子沢山」というけれども、現実には「子供の生産性が高い」から、多産の方が得になる。
 インディラ・ガンジーさんが「産児制限」を叫んで、選挙に敗れたゆえんである。(p.107)
 生産性を基準とする考え方には同意できないけれど、働くことを免れている状態が定常化している人間が多くなったら、社会は根本的に病むようになる気がする。学ぶ意欲も働く意欲もなくなったら人生として価値がなくなるように思えるけれど、本人自身がその無意味さに一番苦しんでいるはずである。
 ところで、著者の生産性基準の考え方を延長するなら、「子どもの労働市場」をつくれば少子化は防げることになる。しかし、日本のように高度な技術革新を達成してしまっている国における「子どもの労働市場」ってどんなことがあり得るのか、ちょっと考えつかない。

 

 

【労働問題と社会】
 たぶん、生産性基準の考えで人間を語っても無意味だろう。むしろ、生産性を問わない仕事で、なおかつ人間でなければできない仕事を、タイム・シェアリングで分かち合うしかないのである。すなわち、国家財政の多くを喰い尽している公務員など、ほぼ生産性ゼロに近い存在なのだから、現在の人件費総額で、一人当たりの労働時間を2分の1にして2倍の雇用を生めばいいのである。そうすれば、官民給与格差2倍という酷さも、失業問題もたちどころに解決するのである。
 1日3時間労働、ないし週休4~5日生活というのが、来るべき社会のあり方である。働かなくていい時間を、文化的ないし精神的な向上に充てればいいのである。
   《参照》   『1日3時間しか働かない国』 シルヴァーノ・アゴスティ (マガジンハウス)
   《参照》   『お金のいらない国』 長島龍人 (新風社)

 現在のようなお金基準の考え方を基盤にして、人生の多くの時間を労働に縛りつけている状態に疑問を抱かない限り、社会は進化できないだろう。
 あるべきは、労働ではなく奉仕であり、その対価はお金ではなく悦びの循環である。そのようにして生きている人々は、既にアセンションしている地球にシフトできるだろう。
   《参照》   『アミ小さな宇宙人』 エンリケ・バリオス (徳間書店)
             【アミの星】

 

 

【インドは超先進国】
 リフキンの描く先進工業国の未来社会というものを読んでいると、その彼方に、他ならぬ「インド」が見えてきたのである。
 私が異常に魅かれたインドとオーバー・ラップしてくるのである。(p.163)
 ジェレミー・リフキンは、『エントロピーの法則』という著作で有名になった。エントロピーの法則というのは、熱力学の第2法則のことで、高温と低温が接すればやがて均一な温度となり、熱的な均衡状態に向かうという不可逆過程を語った法則のこと。多量にエネルギーを消費する人類の生産活動は、この過程を加速するから、やがて人類は「熱的死」に到るという文明批判として、当時多く読まれた著作だった。
 インドはテクノロジーを使わない国であり、自然との共存共栄が生活になっている国であることはすでに述べてきた。 ・・・(中略)・・・ 。
 ビハールの地下1mには世界最良質の炭層があるそうである。
 しかし、インドはこれを掘り出さない。
 GNPという物差しで計れば、インドは「発展途上国」(ALAS!)だが、エントロピーの法則という、先進国の中でも、もっとも進んだアメリカの頭脳がやっとたどりついた最新の成果を物差しにして計れば、なんと、インドは、「先進国」よりも、はるかに進んだ「超先進国」だったわけである。(p.163)
 著者は、この本の中で、インドの貧困を論じたかのようなガルブレイスの『大衆的貧困の本質』という著作にも言及しているけれど、インドは、発展できなかったのではなく、インド人の秀でた暗黙知によって欧米的な発展を拒んできた、と考えることもできる。
 今日のインドは、IT頭脳先進国として世界の中で重要な位置を占めつつ、経済の発展過程に入っているけれど、後発ゆえに、化石燃料にも原発にもよらない最も効率のよいエネルギー政策をとりうるのだから、自然との共存共栄を維持しながら発展できるかもしれない。今後どのような変貌を遂げてゆくのか、最も興味深い国の一つである。

 

 

【日本の文化とインドの文化】
 日本の文化とインドの文化は、まことに正反対である。
 日本の結婚式の物質的浪費の仕方には、目を見張るものがある。 ・・・(中略)・・・ インドの結婚式は依然として、宗教的な儀式の延長線で、厳粛に行われ、もちろん、物質やエネルギーの消費はきわめて少ない。
 インド人がどのような死を喜びとするかはすでに述べた。
 日本人の死は、最後に灰になるために石油を使うところまで、とにかくお金がかかる。(p.186)
 今日の日本は、強烈に格差が進展しているから、多くの人々はとりたてて悩むこともなく、経済的負担の少ない結婚式や葬式を選択するようになるはずである。モノ・カネに支配されている日本人の意識を変革するためにこのような状況になっていると考えておけばいいだろう。
   《参照》   『おひとりさまで幸せになる人、ならない人』 柏木理佳 (幻冬舎)
             【葬式のこと】

 若い世代は、既に過去世のいくつもの人生で主要なことを学び終えた魂たちが多い。彼らは先天的にモノ・カネに執着しないのである。年配の世代の方がモノ・カネに執着し、なおかつ人生における学びの少ない魂たちが多いのである。このような年配世代が結婚産業・葬式産業を延命させる最後の世代となるのだろ。
 経済先進国・日本は、今後、文化先進国として世界を牽引してゆくことになるはずである。陸続と地球に生まれてくるインディゴたちを、古い世代の発想で見ても無駄である。

 

 
<了>