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 数学者の森さんと、資生堂会長の福原さんの対談。最近は生理的に読書に向いていないのかもしれない。期待できる著者のお2人なのに、あまり印象的記述がなく冴えた内容に感じられない。


【性は関係なくて個人の問題】
<福原>だいたい男というのは抽象概念の把握に優れていて、目的に突進してゆく、女性の場合には、具体的な目に見えるものに優れていて、目的にはフレキシブルに対応すると考えていた。ところが、その後、女性が登用されて重要なポジションにつくようになると、これは性では論じられないことに気づいたという。男でも抽象概念が把握できないのがいっぱいいるし、女性でも具体的な概念が全く分からないのがいる。
 要は、性というのは全く関係なくて個人の問題と考えている、そうである。 (p.110)

 「女は実体であり、男は現象である」というのは、名言ではなく迷言だった?

 いや、名言なのだけれど、男も女も劣化したことで、該当する範囲が狭くなっているということだろう。

   《参照》   『オバサンとサムライ』 養老孟司・テリー伊藤  宝島社
              【オバサンとサムライ】



【教養とは】
<森>若い子なんかは、教養とは知識をたくさん持っていることみたいに思うんですね。ところが僕は、ひょっとしたら、教養というのは知識を無駄にした量で決まるんじゃないかと。例えば、若いころにいろいろ小説読んだって、あまり心に残っているかどうかは憶えていないんですね。
<福原>ええ、憶えてないですよね。
<森>それはいわば、後で消えるものなら無駄みたいですけどね。そういうものを、いわば、無駄が沢山あることによって、その人の人間が作られていくんで、それが教養にになるんじゃないかというイメージなんですけどね。
<福原>まさにそうですね。 (p.156)

 憶えていなくても知識は無駄にはなっていないと思う。憶えていなと表現するしかないのであるけれど、本当は意識の底に沈んでいて、その記憶の引き出し方がわからないだけだろう。これは、輪廻転生を経ても残るものである。特異な才能を発揮する人々は、その分野で前世に蓄えたものが圧倒的に多い。そうでなければ、個々人の才能や人生の差が説明できないし、そもそも輪廻転生の意味すらなくなってしまう。


【人付き合いのネットワーク】
<福原>よく、人とのつき合いを広くしなさいとか、いろんな物に興味を持ちなさいとか、ネットワークを作りなさいとか、僕自身も言うんですよ。だけど、向こうの人が付き合ってくれないようなあなただったらだめなんですよね。
<森>ネットワークというのはお互いが面白がる場ですからね。
<福原>だけど、そこのところが皆わかんないみたいですね。
<森>自分の安心のためであったらだめですね。自分の枠を取り外せるかどうか。 (p.178)

 狷介孤高に生きている人なら、この様な会話を読んで、「迎合してまで人と付き合う気はない」 と言い切ってしまうのではないだろうか。かってチャンちゃんはそうであったし、今もその傾向がかなり残っている。しかし、もしも世に出ようとする気持ちがあるのならば、自分の枠を取り外すことが必要になってくる。
 自分の枠を取り外そうとするとき、屈折した心理を裡に抱えていると、ピエロのような自分を感じてしまう。それがなければ、あるいは人を喜ばすことに意義を見出すことができれば、本来のエンターテナーになれるだろう。

 

<了>

 

  福原義春・著の読書記録

     『だから人は本を読む』

     『柔らかい生き方をしよう』