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 瞬く間に読み終えてしまった。会話が弾んでいるので読んでいて楽しい。


【食のバリエーションと食材の品目数】
 バリエーションが増えているのはたしかだけれど、現代人が食べている食材が昔の人に比べて増えているかといったら、そうじゃないんですよね。
 いまは30とか50とか、食材の品目が十桁なの。縄文人は千桁食べていたっていうんだ。 (p.21)
 にわかには信じがたい内容であるが、その理由を確認すれば納得できる。一つの品目を多量に作ることが可能になったがゆえの、バリエーション増加である。

 

 

【イジメ】
 その4つの中でイジメっていうのは人間関係の悪い部分でしょう。4つのうちひとつが辛くても、残り3つがあるから逃げ場所があった。でも、今は4つのうち2つがあらかじめなくなってしまったから、社会が半分になって、イジメが倍の辛さになったわけです。 (p.49)
 「その4つ」というのは、人間関係の良いことと悪いこと、自然世界の良いことと悪いことである。都会という自然世界のない環境では、捌け口や分散場所がないというだけでストレスが高くなってしまう。

 

 

【自信とは】
 「何かができたから自信がついた」と思われがちだけど、本当はそうじゃないと思う。大事なのは「変わる」ということなんだ。
 「できなかった自分」から「できた自分」へ変わっているということが重要なのであって、「何かができた」ということ自体が大事なんじゃないんだよ。つまり「変わっても大丈夫だ」ということを知ると、それが自信になるんだ。 (p.236)
 変わることと自信に関する考察は、この部分以外に、前半(p.102)にも記述されている。これに関して思いつくことは沢山あるのだけれど、後続に譲ろう。

 

 

【男と女】
 男が弱いというのは、ある意味で当たり前のことなんですよ。もともと人間というのは、放っておけば、男はおとなしくなるし、女は活発になるんです。だから昔の人は、「男は男らしく」、「女は女らしく」と言ったわけです。そうしないと、「男はしとやか」で「女は強くたくましく」なっちゃうから。 (p.30)
 「オーラの泉」で三輪さんが同じことを頻繁に言っている。「男はとてつもなく脆くて、女は殺しても死がない」って。
 日本は60年以上戦争を経験していないから、「男が男らしく」活躍する場がなく中性化してしまっている。女性も本来の女性に戻って「強くたくましく」なっているということなのであろう。
 男性が、「お嫁に行きたい」と思うのは、本来の男性という視点からいうと間違っていないのである。だから行き遅れている現代の独身男性は言っても良いのである。「誰もお嫁にもらってくれないんだもん」って。
 悪乗りして書いてしまったけれど、上の抜書きは、この本のタイトルの伏線である。

 

 

【オバサンとサムライ】
[テリー] 僕らは、ここでずっと「サムライはどこへ行った」とか「日本人は武士道を忘れてしまった」とか言ってましたけど、もしかしたら武士道を学ぶよりも、「オバサン道」を学んだほうがいいってことですか?
[養老] うん。長生きしたけりゃオバサン道のほうがいいね。だいいち、切腹なんてしなくていいんだから。
[テリー] そうですね。ストイックなサムライ道より、元気の出るオバサン道。
[養老] そうそう、目の前の日常の具体的な喜びを精一杯楽しめる。男は抽象的なんだ。
[テリー] たしかに男は抽象的ですよね。何を目指しているのか、何を喜びにしたいのか、よくわかんないもんなあ。「自分の価値は・・・」とかって言ったって、そんなの、いつまで追いかけたって答えなんかないもんね。
[養老] ぼくの先輩が名セリフを言ったんだよ。「男は現象だが、女は実体だ」って。男と女の違いは、それに尽きる。

[テリー] そうか。オバサンは実体なんだ。サムライなんて、まさに現象に過ぎないんだから、実体にはかないっこないもん。これからは「オバサン道」だよ。 (p.216-217)
 上述の会話に即して考えるならば・・・・、
 抽象的な世界を思索するのが好きなのは男性の本性であるから、哲学や倫理学や社会学的な抽象世界・現象世界を文章化する作業は専ら男性によって行われてきた。女性は、良妻として旦那の現実を支えるか、悪妻として旦那を抽象世界へ逃げ込ませるかして、男性を抽象的な世界に没頭させていたのであろう。女性が下支えする関係で男性の高踏的な思索世界である哲学や宗教が栄えていたのである。
 このような関係は、モノが豊かではなかった時代が背景であったことと大いに関係ありそうだ。近年の日本のように、モノが溢れ出してくれば、周辺は、まさに実体の洪水である。平和でモノに溢れた世界に長らく住みなれた女性は、本性を露に、男性をさしおいて実体世界に遊び、男性は、女性の支えを失って思索する抽象世界すら失ってしまったのであろう。総じて愚民化の感は否めない。
 テリーさんの本(考え方)が面白いのは、体感的であろうとする世界への接し方に躊躇がないことなのであるが、そのようなスタンスの取り方こそ、従来の男性にはないものだったのである。つまり、テリーさん自体がオバサン的なのである。
 この本の記述からも推測できるように、モノに溢れた日本社会に「武士道を復活せよ」と言っても殆ど不可能に近いであろう。オバサン達が元気な時代は、次第に精神性を喪失して行く傾向にある。
 しかし、陰極まって陽に転ずるがごとく、オバサンたちから生まれでた子供たちは、実体の中にある本質を看破するだけの妙なる能力=霊性を備えた人間として陸続とこの地球上に生まれてきている。
 オバサンがサムライに取って代わるならば、いずれそのオバサンに取って代わるのはワラベ(童)である。
    《参照》   『ちょっと話してみました』 船井幸雄・浅見帆帆子  グラフ社

 

 

<了>