イメージ 1

 この愛蔵版は1990年初版ではあるけれど、新書版の初版は1974年。人文系の書籍は、古書であっても価値を減ずることはない。同じころ渡部昇一先生の 『日本史から見た日本人』 のシリーズ3冊が、やはり祥伝社から発行されていた。その本は、日本文化的なことに興味を持ち始めた時期だったので、書かれている全てのことが大層勉強になった。この書籍は歴史という視点はないからスケールは小さいけれど、個々の事例が豊富で興味深い。

 

 

【資源なき故の技術力】
 ヨーロッパにはコークスがあって、鉄は溶けてしまうから、鍛える必要がない。形を整えて研ぐだけである。
 日本には木炭しかなかった。木炭という低温燃料しかないという不利さが、逆に “鍛えて焼きを入れる” という知恵を生んで、世界一の利器を作ったのである。(p.51)
 当時は温度によって変化する、鉄が含有する不純物の科学的組成割合など、具体的には分かっていなかったのであろうけれど、そういった過程があったからこそ、近代国家となってからの日本の製鉄産業の品質も世界に抜きんでていた。

 

 

【漬物、味噌、醤油の発達の原点】
 食塩は、空気に触れるとすぐに品質が変化する、という性格を見きわめると、空気に触れさせない方法を考える。
 そのためには、他の動植物の蛋白や繊維の中に塩を入れておけばいいことを知る。その発想が、漬物、味噌、醤油の発達の原点である。
 ・・・(中略)・・・。武田信玄が考案したといわれる “信玄味噌” は、400年前のものだが、今日でも作ったときのままのように塩辛く食べられる。山梨県に残っているが、もちろん、大豆の蛋白もそのまま栄養が保存されている。(p.69)
 漬物、味噌、醤油は、長期保存を可能にする発酵食品であるという説明はどこでもされているけれど、食塩を視点にこのように語ることも可能。

 

 

【西洋4味、中国5味、日本6味】
 西洋人は味を4つに分ける。甘い、すっぱい、塩辛い、ぴりっと辛い、の “4味” である。中国人はこれに、苦いを加えて “5味”。中国では 「5味の調和」 というのが調理の基本である。
 日本はこれに、 “うまい” を加えて “6味” である。 (p.71)
 “うま味“ の調味料が、「味の素」 や 「ほんだし」 として市販なされているもの。数十年前から、東南アジアの食品店に行けば、この日本製の調味料は大抵どこでも売られていたらしい。

 

 

【東北地方への米の伝播】
 坂上田村麻呂(758~811)が、平安時代に征夷大将軍に任命され、東北征伐に行って築いたのが胆沢城である。 ・・・(中略)・・・ 。胆沢城は昭和30年に発掘されたが、あらわれた農事試験場は、見事なものであった。日本史で学ぶ “東北征伐” は、武力で抑えつけたような表現で述べられるが、実は近代的な発想を持った文化的な開拓だったのである。(p.79-80)
 西洋の歴史を見て、それに倣って日本も同様な略奪型の征服と思ったらいけない。戦前の、植民地経営もまさに胆沢城方式である。西洋と一緒にしてもらっては困る。
 東北地方に、佐藤、斎藤など “藤” の姓が多いのは、藤原氏の人々が、近畿地方から、稲作農業の指導者として、あるいは移住者として定着した名残りと考えてよい。(p.80)

 

 

【梲(うだつ)】
 梲というのは、切妻式の家屋の両側に、屋根の上まで高く立てた泥壁のことである。(p.132)
 梲を今頃知った!!!
 防火壁としての役割を持っていた。ある程度経済力がないと、“梲があがらない“。

 

 

【蜘蛛の巣と紫の布で梅毒が治る!?】
 小野蘭山が享和年間(1801~04)に完成した48巻の 『本草綱目』 を引けば、紫根草についての記述がある。紫根草の皮を煎じ、これを染料にするとともに、薬用にも供した、とある。その薬物効果は糜爛した患部や傷口の治療になる、と記してあったのである。 ・・・(中略)・・・ 。蜘蛛の巣は、患部が布に付着しないためのガーゼみたいなもので、紫の染料が薬だったのである。(p.144)
 患部に蜘蛛の巣をガーゼのように載せて使っていたという場面を想像しただけで、なんか妙にオカシイ。

 

 

【日本人の創造性が生んだ着物】
 日本人が南方系の衣服を原形のまま残したのは、フンドシと腰巻(サリー)だけである。それ以外は、すべて便利なように変形させてしまった。上衣についても、袖を全部不要にするのではなく、北方系と南方系の衣服の折衷形である袖付貫頭衣を作りだした。これが着物の原型ともいえる小袖である。(p.164)
   《参照》   『装いの文化』 樋口清之  装道出版局
               【和服のルーツ】

 

 

【ブスの語源?】
 トリカブトから取る毒のことを “付子(ぶす)” というのである。トリカブトの毒が傷口に入ると、脳の呼吸中枢がマヒして感情や思考力を失い、無表情になる。この無表情になった状態を “ブスだ” といい、それが表情のない人、つまり、美しくない人のことを “ブス” というようになったというのである。ブスの語源は、トリカブトの毒のことだという説である。
 和尚が小坊主に、砂糖を食べられないように、付子と言っておいたものをめぐっての狂言がある。ならば、小坊主ではなく、尼さんにその役をさせたらもっと面白いだろうにと思うけれど、能楽界は女人禁制らしい。

 

 

【五節句】
 1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日のいわゆる五節句、これは単数の奇数が重なる日を重陽の節句とした中国の発想である。だが、この日を農事暦に重ねると、旧暦にある稲作の労働スケジュールと、大体において符合するのである。
 それぞれの節句に関連する植物は、七草粥、桃、菖蒲、笹、菊。こんな風にまとめるのも一つの記憶法。

 

 

【女の切腹】
 女の切腹で立ち腹というのがある。
 これには有名な事件がある。自分が嫁に行って、夫がだらしないから実家に借金に帰る。すると、実家で “何の金だ” といわないと金を貸さないというので、怒ったその女は、庭で立ち腹を切ったというものである。婚家へは帰れないし、実家へ帰ったら怒られた、自分の立場がない。夫の名誉を守るのが使命だ、というのが理由で、この事件は柳本藩(奈良県)で実際にあった事件である。
 立って腹を切るときも、十文字に切る。すると内臓が飛び出さずに血が吹き出る。大体20分くらいで貧血で倒れるが、それまで仁王立ちになって我慢するわけだ。大変な持久力が要るが、痛さは皮膚の下を切るときだけで、あとはあまり痛くないらしい。(p.240)
 女性の切腹というだけで “凄い” けれど、立ったままの切腹というのが、もっと ”凄い”。
 超スゴである。

 

 

【売春婦】
 売春婦 ――― 私はこの名称を好きではないが、娼婦は人類の歴史とともにあった。
 古代ギリシャでは、これをベスターという。ベスターは元は火の神で、各国家都市から巡礼が来て、今日のオリンピックの聖火のように火をもらって帰る。そのときに、聖処女と肉体的接触をしなければならなかった。その神の化身である聖処女と霊肉一致して、その日をもらったお礼に、神さまにお金を奉納していく。聖処女はつまり、巡礼と神を結ぶ媒体であった。(p.244)
 Vesta を辞書で調べると、ローマ神話 ヴェスタ《火と炉の女神》、ギリシャ神話の Hestia に当たる、と書かれている。
 日本でも同じで、初めは神と結びついていたという。

 

 

【御前・白拍子・太夫】
 伊勢の古市とか、奈良の木辻だとか、社寺の参拝に人が集まる門前町には、必ず売春婦がいた。彼女たちは、神の前に仕える人だから “御前” といった。
 静御前、常盤御前、巴御前などは ――― 白拍子で、神の前に仕えて、神の意志を伝える巫女、神がかりを原義とする御前名を持っている。売春婦のことを “太夫” というが、これはもともと5位の官人で、神主のことである。(p.244)
 “性” と “聖”。 同じ言霊。
 
<了>
 

  樋口清之・著の読書記録

     『梅干と日本刀』

     『帯と化粧』

     『柔構造のにっぽん』

     『装いの文化』

     『大和の海原』