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 著者の独特な語り口調で、様々なことが記述されているので、読みやすくて面白い。

 

 

【読み書き中心の日本語】
 日本人は、読み書きが中心という、世界でも例外的な言語である日本語を使っているから、言葉の教育に関するノウハウが (英語教育の場合でも) 読み書き中心のノウハウになっちゃうんです。おしゃべりのノウハウにはならないんですよ。
 この理屈を知りたければ、私のべつの本を読んでくださいね。たとえば 『考えるヒト』 (ちくまプリマーブック)  (p.70)
 『考えるヒト』 は読んだことがないし、手許にもないから、この理屈は後回し。
 けれど、読むことに関してかなり示唆的な記述があった。以下である。

 

 

【脳の訓練の半分は、体を動かす訓練】
 国語の朗読だって、体の訓練ですよ。声を出さなきゃ朗読にはなりません。声を出すには、筋肉を使わなけりゃなりません。それを上手にやろうと思うなら、それこそ発声に関する動きを、素過程から訓練する必要があります。だから 『声に出して読みたい日本語』 (草思社)なんでしょ。著者の齋藤孝さんは、もともと武道家ですよ、国語の先生じゃない。国語の半分は体育なんです。 (p.175)

 

 

【解剖学は、雑誌の 『フォーカス』 と同じ】
 じつはあの本( 『バカの壁』 )は、私が書いたんじゃないんです。新潮社の後藤裕二さんが書いてくれたんですよ。だから後藤さんの文章なんですよ。私がしゃべったことを後藤さんが文章にした。
 でも、原稿ができてみると、なんと私がなおすところがほとんどない。後藤さんが上手なんです。
 じゃあ、後藤さんの文章と、私の話の、どこが一致したのか。後藤さんの前の仕事は 『フォーカス』 という写真週刊誌です。これですよ、おそらく犯人は。
 『フォーカス』 って、ただひたすら写真に説明をつけてある雑誌です。なんと解剖学の論文と同じですわ、これは。どれも根本的には、図や写真に説明をつけたものですよ。
 私の仕事(解剖学)は 『フォーカス』 と同じだったんですよ。 (p.106-108)
 興味深い裏話です。

 

 

【 『唯脳論』 はお経である】
 「自分で考えて」、自分の考えの枠組みを書いた著書が 『唯脳論』 です。これを書き終えてから、中村元先生の書いた仏教の解説本をたまたま読んでました。そこに阿含経の内容を紹介した、短い解説がありました。それを読んだ瞬間、思いましたよ。「俺の本って、お経じゃないか」って。「俺が書こうと思ったことって、昔のお経に書いてあったんだ」って。
 『唯脳論』 という表題は、当時は青土社にいた喜入冬子さんがつけてくれたんです。その背景にはもちろん「唯識」があるわけです。喜入さんと相談したわけじゃないんで、こういう題をつけてくれたということ自体が、仏教思想が背景にあることに喜入さんが気付いていたということでしょう。でもマサカと思う。 (p.151-152)
 “著者は、密教や唯識などの仏教関係の知識なしに 『唯脳論』 を書いていた”、と言うことの方がチャンちゃんには信じがたい。こっちの方がマサカです。
 でも、以下の記述は、双方のマサカという思いに、あるていど納得できる説明を与えてくれている。

 

 

【そもそも日本語が「諸行無常」】
 日本語は明治以降、さまざまな抽象概念を西欧から借り入れました。その際にいろいろ造語をしたわけですが、その基本になったのは、おそらく仏教用語なんですよ。だって、それ以前の抽象用語といったら、仏教の用語しかなかったんですからね。日本史では仏教伝来が大きく扱われますが、これはたしかに大事件でしょうね。
 千年以上、抽象思考は仏教漬けになってきたんですから、日本語を使ってものを考えたら、「仏教より」になるのは当然ですな。だから、学問とは方法じゃないか、って書いたでしょ。学問の最大の方法のひとつが、言葉なんですから。その言葉の癖を導いてしまいます。 (p.158)


<了>

 

  養老孟司・著の読書記録

     『マンガをもっと読みなさい』

     『日本のリアル』

     『江戸の知恵』 養老孟司・徳川恒孝

     『虫眼とアニ眼』 養老孟司・宮崎駿

     『バカなおとなにならない脳』

     『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎

     『ほんとうの環境問題』 養老孟司・池田清彦

     『考えるヒト』

     『笑いの力』 河合隼雄・養老孟司・筒井康隆

     『希望のしくみ』 アルボムッレ・スマナサーラ・養老孟司

     『寄り道して考える』  森毅・養老孟司

     『生と死の解剖学』

     『運のつき』

     『オバサンとサムライ』