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 スリランカ仏教界長老というスマナサーラさんと、 『バカの壁』 で有名な養老さんの対談。

 

 

【仏教の困難と 『バカの壁』】
 私は、ブッダの言葉を、未熟な能力で紹介しようとしている者です。
 「すべては無常。心も身体もその他の物質も、すべては固定したものではなく、瞬時に変わって流れている」 というのが、ブッダの立場です。
 しかしほとんどの人間は、「自分も物も変わらないものだ」 という前提に立って生きています。生き方も、ものの見方も、何もかもすべてアベコベです。
 だから一切は瞬時に変わるのだという立場から、人がいかに生きるべきかを語り伝えること自体、世界でもっとも難しいことだと思います。
 「仏教の困難」 は、まさにここにあります。 ・・・中略・・・。
 来日以来、この国のことをできるだけ理解しよう、ブッダの言葉を伝えようと、自分なりに頑張ってきましたが、耳を貸す人は多くありません。心理の言葉は核心をつき多くを変える。それがいかに素晴らしい変化であっても、変わらない自分にしがみつく人には、やはり受け入れがたいことなのでしょう。私の希望はあまりに大胆なのかもしれません。
 そんなとき、養老先生のご本を読みました。
 それはまさに驚きでした。純粋に現代科学的なアプローチで、ブッダが語り続けてい真理のいくつかに達しておられた。仏教の困難を 「バカの壁」 ゆえと喝破しておられた。真の知性を現代に得て、皆さまは幸せというべきでしょう。 (p.204)
 こういう縁で、この対談が実現したらしい。
 ところで、「無常観」 という概念はなにも仏教の専売特許ではない。古来から、日本人は “もののあわれ” という言葉の中に 「無常」 を表現していたのである。仏教思想の流入によって、 “もののあわれ” という言葉が生じて、その後に日本人に 「無常観」 が根付いたのではない。
     《参照》  『「脱亜超欧」へ向けて』  呉善花  (三交社)
                 【もののあわれ】
 現代の日本人は、自然環境から離れ、死からも隔離されるような生活状況になってしまっているから、「無常観」 の認識に到達しにくくなってしまっているだけだと思っている。
 養老さんは、自然から離れて近代化する都市の中で、解剖学者という立場で客観的に 「死体」 と接触してきた。それは、釈迦族の王子であったブッダが王城(≒都市)から出て初めて、客観的に 「生・老・病・死」 に遭遇したときの認識に類似しているのかもしれない。

 

 

【戦争中でも幸せ】
スマナサーラ:たとえば 「平和な社会になれば幸せに暮らせる」 と言っても、それはあまり意味がないんですよ。戦争中でも幸せでなければなりません。豊かな時だけが幸せというのも困ります。作物の出来が悪くて豊かでないときも、幸せでなくちゃいけないんです。
 ------ でも 「戦争中に幸せを感じる」 なんて、おかしくないですか?
養老:そんな人いっぱいいますよ。本当に、戦争になったら胃潰瘍の患者さんがいなくなったんだから。幸せを感じている証拠ですよ(笑)。「ストレスがない」 っていうんだから。 (p.171)
 心の根源ですら価値相対である。 “このことを自覚しなさい“ というのが仏教の到達点なのだろうけれど、つねに心の側からばかりアプローチしたがるから仏教は冴えないのである。
 養老さんが話のように、環境を変えることで、自ら不幸と思い定めていた基準(=価値)を相対化できることを人々は自覚的に思考訓練として活用すべきである。もちろん、環境に働きかけるための現実的な努力を欠いていたら片輪であることに変わりないけれど。

 

 

【ノーベル賞学者のアナロジー発言】
養老:ものの考え方って、基本的にはアナロジーですからね。アナロジーに関しては、動物行動学者のコンラート・ローレンツに面白い話があります。彼はノーベル賞の受賞講演で、自分の考えはアナロジーだけだと言っているんです。学者の世界で、ましてやノーベル賞クラスの学者でそういうことが言える人って、少ないんです。アナロジーって 「人真似」、一種の真似ですからね。「すでにあること」 を違う局面で繰り返すことなんですから、独創性を競う学者の世界では言いにくい。 (p.113)
 下記の書籍の重要なポイントを補完する記述なので、書き出しておいた。
      《参照》   『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』  茂木健一郎  PHP新書
                【「ひらめきは個人に宿る」 は 「フィクション」 である】

 

 

【人生はパックツアーではない】
養老:「人生って中途半端なんだよ。答えなんてないんだよ」ってことを、どうして教えてこなかったのか。
スマナサーラ:彼らにとっての人生は、パックツアーみたいなものですね。・・・中略・・・。人生ってそうじゃないんですけどね。
養老:そう。ほんとにパックツアーだと思ってる。
 ----- 横道にそれる快感を知らないんですね。
養老:それは横道なのかどうかもわからないんですよ。いまの表現は非常に日本型で、人生に正道があると思ってるんだ(笑)。
 ----- あ、そうか。
スマナサーラ:道があると思ってる。
養老:だったら我が道を真っ直ぐ行きゃあいいじゃないか、とこちらは思うわけ。パックツアーなんかじゃなくてね。 (p.59-69)
 回答があってしかるべき、道筋があってしかるべき、枠組みがあってしかるべき。こういう考え方をする人々ほど、自ら脳に汗をかかせる努力をしない。考えない。だから、まったく知性は発達しない。そこで必然的に、自分自身にとって寄り付きやすい思い込みの世界を論拠にする。最悪である。

 

 

【フリー・パックツアー】
 パックツアーで思い出してしまった。
 3年ほど前、数日間、仕事で行っていた香港。ピクトリアピークで日本人大学生男4人組に出会ったので、「どこに行ったか」 と聞いたら、「コーズウェイベイ付近で3日間過ごした」 と言って私を驚かせた。(コーズウェイベイは、香港内で、最も日本企業が多く集まっている地域のこと)
 4泊のフリー・パックツアーで香港に来ていて、この回答である。外国人が東京に来て新宿付近に3日間いた! というような馬鹿げた過ごし方である。「深圳は? マカオは?」 と聞いたら、どこにあるのかさえ分かっていなかった!!!。
 フリー・パックツアーという枠組み内の自由があっても、その自由すらテンデ活かせていないのである。横道も正道もないではないか。3日間、一点に留まっていたのと同じである。今時の日本人の大学生は重症である。こういう連中に 「人生とは」 と質問されても、からっきし答える気になれないだろう。

 

<了>

 

  養老孟司・著の読書記録