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 最近テレビで頻繁に見かける脳科学者さんの著書。「発想方法」 とか 「ひらめき」 というテーマに特化したありふれた内容なのだろうと思ったら違っていた。その程度の偏狭なものではなかった。秀でた日本文化論である。

 

 

【偶然幸運に出会う能力:セレンディピティ】
 偶然の出来事自体は、コントロールすることはできない。しかし、偶然の出会いを活かすように心がけることはできる。セレンディピティは、きたえることのできる能力なのである。
 まずは、行動を起こすことが肝心である。ただ待っているだけでは幸運は訪れない。できない言い訳をならべる暇があるのなら、ともかくやってみる。そして、一見些細に思えるような出来事でもよく観察し、なにが起こっているのかを認識して、理解し、受容することが大切である。 (p.20)
 要約するならば、「やる、観察、認識、理解、受容という一連の意識覚醒状態を保っていれば、幸運に出会うことができる」 ということであろう。守株の忍耐では、セレンディピティなど鍛えようもない。

 

 

【「ひらめきは個人に宿る」 は 「フィクション」 である】
 「ひらめきは個人に宿る」 という 「フィクション」 のメガネをかけてしまうと 「天才科学者ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが二重螺旋構造を見抜いた」 ということになるが、それは必ずしも事実を言い当ててはいない。
 たしかにたぐいまれな才能を備えている人は存在するが、その人をその人たらしめた周囲の知恵や、先人の研究の積み重ねといった恩恵を見落としてはいけない。個人がすべてを発想するというのは 「神話」 であり、21世紀を持続可能な時代にはしないだろう。
 「日本人は欧米人が創造したものを改良するのは得意だけれど、自ら創造するのは苦手である」 という俗説も同様だ。「欧米人の創造」なるものも、先人の智恵、そのまた先人の発明・・・・という果てしないリンクの中の通過点に過ぎない。 (p.42)
 「独創的な研究者のみが手にするノーベル賞」 という思い込みを排して、「創造性は、個人に宿るのではなく、先人から現代にまで連なる智恵の連鎖の中に萌芽する」 と明確に認識すべきなのである。そうすれば、「日本人には創造性が欠けている」 というマイナスの思い込みが、逆に、「日本人の智恵の連鎖による、弛まざる 『カイゼン』 に結実している」 のであり、「それはノーベル賞の受賞者の創造性と根源を同じくするものである」 という結論を導く。
 トヨタの生産方式の中の一つである 『カイゼン(改善)』 は、既に経営学の世界標準用語になっている。
 トヨタでは 「創造性は、誰もが持つものだ。一部の天才やエリートのものではない」 と当たり前のように考えられていて実践されていた。 (p.76)

 

 

【「お互いさま」で進歩する】
 トヨタ生産方式は、世界のものづくりを変えたと言われるほど画期的だ。その生みの親といわれるトヨタ自動車工業の大野耐一氏は、自分のオリジナルだとは一言もいっていない。トヨタグループの始祖である豊田佐吉の 「自動化」 や、喜一郎氏の 「ジャスト・イン・タイム」 をベースにしたと明言している。またフォードの流れ作業と、科学的管理法の父フレデリック・テイラーの手法がヒントになったとも語っている。
 この「みなさんのおかげです」 という謙虚さこそが、日本の伝統であり、創造の基礎となるものだ。これがヨーロッパやアメリカだったら、「タイイチ・オーノ」 という天才がいて、たった一人でゼロからトヨタ生産方式を独創的につくりあげたという 「フィクション」 になるかもしれない。 (p.49)
 あらゆる創造は「影響の連鎖」の中にある。だからこそ日本人は、「お互いさま」 とか 「おかげさまで・・・」 と謙虚に表現してきたのである。 “日本人の謙虚さ” は、「影響が連鎖する(因縁の)世界」 を冴えた眼差しで見極め切った結果の必然なのであろう。未熟な眼差しで世界を認知した結果の必然が “傲慢” なのである。智恵と呼ぶに相応しいのがいずれかは問うまでもない。
 また、個の才能を突出させた傲慢な集団よりは、個の才能を突出させぬ謙虚な集団の方が、全体最適を導きやすいのも必然である。日本人本来のやり方は、本質的な理にかなっているのである。

 

 

【考え続けることで脳は成長する】
 トヨタでは、常時、カイゼン(改善)の提案制度を取り入れている。
 このように、絶えずやること、続けることは重要である。年に一度、「さあ、アイデアコンテストをやりましょう」 「今月は改善月間です。提案を出してください」 というやり方では、脳の回路は強化されにくい。「毎日やる」 という習慣化、日常化が、創造性を自分のものとする最善の方法だ。 (p.60)
 独楽が高速に回転している時、天地を貫く軸は安定し揺らぐことはない。回転力が衰えると僅かな外力であってさえよろめきを引き起こす。頭(脳)の使い方は、独楽の回転に比定することができると思っている。アイデアも同じなのであろう。頭(脳)を使ってないと遊惰安逸に流れアイデアも枯渇する。
 脳はオーバーヒートしない。脳はハマれば疲れないのである。脳には使いすぎを警報する装置はなく、逆に負荷のかかった状態で使い続ければドーパミン分泌機能が働いて快をもよおすようにできている。使いすぎを憂える必要は全くないのである。

 

 

【ソニーとトヨタ】
 両社にはほかにも 「こだわり」 「創意工夫」 「みんなでアイデアを出し合う」 といった共通項がいくつもある。同じことをソニーは 「ソフト、エレガント、クール(格好よく)」 でやり、トヨタは 「厳しく、まじめに、思いやりの心」 でやっている。この両社にかぎらず、なにかを成し遂げた企業や人には、共通する要因があるということだ。
 脳の学習はオープンエンドである。終わりがない。それは日本人の心性そのものなのかもしれない。 (p.142)
 日本人の 「道」 と見たがる心性、それはまさに 「終わりなき “道” 」 である。

 

 

【ひらめきの変容】
 ひらめきの量を意識的に積み重ねることで、ひらめきの質自体も高められるということになる。量が質に転化するのだ。さらに、個々人がひらめきのロングテールを拾い続けることによって、集団としての創造の回路も太くなる。 (p.64)
 「集団としての創造の回路も太くなる」 という記述の実例が、初期のソニー研究者集団に当て嵌まっていたらしい。ソニーの開発責任者である 天外伺朗 さんが、ご自身の著書の中で書いていた。ひらめき集団の中に属すると、個人のひらめきも活性化するのである。

 

 

【総合のフィールドで】
 大枠で見ても、いわゆる文系は日本語の空間で閉じているし、理系は総合的な視点に乏しい。領域を超えた横断的な見地で、知の全体像をわかりやすく伝えられる人が日本人には少ない。(p.89)
 「古代ギリシャにおいて専門という概念は意味を持たなかった」 とは、私の好きなニーチェの言葉である。縦横無尽な知の応酬の中で、本当の知性は築かれてゆく。世界はすでに総合科学、総合学問の時代に入っているのに、日本はまだそこにいたってはいない。 (p.90)
 そういえば、政治・経済・社会・世界史・産業史・思想・宗教など全てを含んだ A・トフラーの著作 『第三の波』 に匹敵するような日本人の手による著作を読んだ記憶はない。
 しかし、これも日本人の特性に起因しているのであろう。大局的な視野でとらえてオーガナイズする欧米的な発想方法と、こじんまり整理整頓してしまう日本人の発想方法の違いである。

 

 

【今の日本人に必要なこと】
 インターネットは、国境や組織の違いを超えて 「文化をつくる」 という、いわば 「真水(まみず)」 の部分に集中することができるインフラを提供した。この 「文化ビックバン」 に、日本人のメンタリティは対応できていない。 (p.167)
 著者は、本の終盤近くになって、このような問題提起をしている。その上で、「遷宮」 や 「もののあわれ」 といった日本独特な用語を短く説明し
 日本人の生命哲学をきちんと掘り下げることができさえすれば、いままで日本の習慣として 「負」 の評価を受けていたことが、あらたな光を当てられて輝きだしさえするかもしれない。 (p.169)
 と書いている。
 日本人自身が日本の対外的な評価見積をやけに低くしている。著者が書いている通り、一般的には確かにそう言えるのだろう。神道に触れる以前の私も、確かに日本を誇れる根拠を持っていなかった。
 しかし今の私は、神道こそが、まさにあらゆる文物を日本文化の中に溶かし込んできた媒質たる ―― 著者の言を借りるならば ―― 「真水」 に相当するのではないかと考えている。神道的な考え方を受容している人々は、文化ビックバンこそ、我がフィールドにおいて行われるに相応しきこと、と思えるはずである。
 神道的という言葉を用いずとも良い。日本文化という言葉で十分ことたりる。著者がこの本に記述している、トヨタとノーベル賞を結ぶ考え方それ自体が、日本文化という 「真水」 に映る映像の見事な解読になっている。
 いまの私たちに必要なことは、わたしたちの思想そのものを、グローバルな行き交いの中に思い切ってだして、鍛え、磨き、そして世界の人たちとわかちあうことではないか。 (p.170)
 「沈黙は金」 とはならないのが世界であるから、語るために出向かなければならない。その前に、日本人の全てが、日本を誇れるように、確かな知識、確かな認識を持たなければならないだろう。
 この本は、トヨタを例にした、その嚆矢である。
 

 

 
 <了>