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 読みたい本がなかなか見つからず、気晴らしを兼ねて、寄り道のつもりでこの本を読んだ。

 

 

【20代は失業者でもかまわない】
森 : 僕は20代の失業率は潜在失業率まで含めると10%前後、2ケタぐらいになるのがちょうどいいのではないかと考えています。日本の失業率は全体で3%ぐらいだと聞いていますが、これはあまりいいことではないと思います。 (p.46)
 世間では、さかんに雇用保障がどうだ、失業率がどうだと騒がれています。たしかに、30代、40代は家庭や子どもがありますから、安定が必要な時期だと思います。しかし、20代や50代はべつに決まった収入がなくても、安定しなくてもいいのではないかと思うのです。今の若い人のように、20代から安定を求めるというのは、なんだか違うのではないかという感じがします。 (p.47)
 タイトルに即した森さんらしい悠揚迫らぬ考え方であるけれど、1928年生まれの森さんが生きてきた時代と違っているから 「冗談でしょう」 と言いたくもなる。度派手に寄り道しながらでも何とかなる人々は、著者たちの様に才と天運のある人々なのだろう。才も天運もなくとも、それらを在るかのごとく想定して生きる能天気な生き方を推奨しているわけではない。あくまでも社会全体の生き方としての閉塞感を覆す考え方として記述しているだけの様である。

 

 

【 「自分は何者か?」 を考えるようになる背景】
養老 : 「士農工商」 の制度が潰れて何が起こったかというと、大正になって自己説明が無限に続くようになり、私小説が大流行しました。自分が何者であるかを事細かに説明するようなものが、人々に読まれたのです。これは日本だけの現象でしょう。この原因は、結局肩書きが消えてしまったからだと思います。現代のように名刺に肩書きをつけるのが当たり前になってくると、自己を説明する必要がなく、何々会社のだれそれでいいわけですから、逆に私小説も流行りません。 (p.82)
 階級制度や社会体制が絶対に変容不可と分かっていれば、人はそれ以上自分自身のことなど考えはしない。制度内・身分内の自分は固定されていて確立しているから。
 社会が中産階級化することで、「自分は何者?」 という問いが始まり、貧富の差という社会の二極化が進行している昨今は、「自分は何者?」 などという問いは不適になりつつある。

 

 

【 「文武両道」 という文化の腰骨】
養老 : 江戸時代には、長い間苦労をして、首から上と、首から下をきちんと調和させていたわけです。型というのは身体表現であり、言葉は言語表現、そして文化は身体表現と言語表現がカチッと結びついているものだと思います。ですから、たとえばイギリス人の貴族だったら、貴族英語を喋り、一方でスポーツをやるなど、文武両道を実践しています。文武両道とは何かというと、つまり、首から上と首から下なんです。それは意識と無意識なのですがそれが明治で相当ラジカルに壊れたと思うのです。
 ところがそのとき、一つ見逃していたことがあると思います。明治の人は、すべてを政治制度、社会制度として把握して、それを支える文化に気付かなかった。それで型崩れしてしまったのです。そうして、日本を支えていた体の型がなくなる時代になった。「そこに、軍が全部引っ張る要因があった」 という唐木さんの言い方を、僕流に解釈すると、その無意識の表現に気付いたのが三島由紀夫だと思うのです。 (p.113-114)
 昨日の読書記録に関連する内容なので書き出しておいた。
 日本軍の殴打厳しいあり方は、身体意識復権への渇望と解釈できる。
 三島由紀夫に関して、チャンちゃんは正当な大和魂の在り方として理解して 「文武両道」 をキーワードに考えていたけれど、養老さんは脳と身体の意識性から、同じ 「文武両道」 というキーワードを導き出している。
  《参照》  『イケズの構造』 入江敦彦 (新潮社)
           【イケズ書としての 『不道徳教育講座』 】 


<了>

 

  養老孟司・著の読書記録

     『マンガをもっと読みなさい』

     『日本のリアル』

     『江戸の知恵』 養老孟司・徳川恒孝

     『虫眼とアニ眼』 養老孟司・宮崎駿

     『バカなおとなにならない脳』

     『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎

     『ほんとうの環境問題』 養老孟司・池田清彦

     『考えるヒト』

     『笑いの力』 河合隼雄・養老孟司・筒井康隆

     『希望のしくみ』 アルボムッレ・スマナサーラ・養老孟司

     『寄り道して考える』  森毅・養老孟司

     『生と死の解剖学』

     『運のつき』

     『オバサンとサムライ』