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 2年前(『運のつき』 養老孟司)の読書記録に書き出しておいた、懸案の書籍を、古書店で見つけたので読んでみた。

 

 

【脳死が生ずるわけ】
 この人工呼吸器を付けることによって、じつは脳死が発生する。脳が壊れても、心臓が止まらないという状況が、人工呼吸器のおかげで、人類史上はじめて発生したのである。(p.10)
 医学は、自然に反した “何と愚かしいこと“ をやっていることか!
 脳死とは、魂が人体から出て “魂消る(たまげる)” 状態なのだろうけれど、肉体を離れた意識としての魂は、抜け殻となった肉体に愚かな医療行為を施している医者たちを見降ろしながら、本当に “オッタマゲ” ていることだろう。
 チャンちゃんの父親が死んだ時も、即死だったのに、人口呼吸器を付けて1時間近くもからかって、10万円も請求書を送って来たのである。即死者までカネのために利用するクズなタコ医者どもめ!

 

 

【言語の進化と、それにより生ずるもの】
 近代言語が視覚系と聴覚系の共通の情報処理規則として成り立つという、すでに述べた原則からすれば、そうした諸感覚に固有の特性は、言語の体系からは排除されていかなくてはならない。さもなければ、聴覚系の情報処理と、視覚系の情報処理は、「共通規則」 として成立しないからである。だから言語の進化とは、じつは聴覚系、視覚系に特有の性質が、言語から 「おちていく」 過程なのである。だから漢字は、具象的な記号から、抽象的な記号に 「進化」 するのである。だから擬音語は、幼児の言葉なのである。ワンワンもニャアニャアも、耳でしか理解できない、イヌとネコの特性を表している。これはいわば音楽的表現であり、言語的表現ではないのである。
 ヒトが視聴覚という異質の感覚を結合して言語を創り出したことは、進化的にはきわめて重大な事件だった。それを否定する人はないであろう。その結合が同時に、ヒト間のコミュニケーションを 「分節的に」 保証し、われわれはわれわれの社会を手にしたのである。(p.169-170)
 ここで言っている “進化的にはきわめて重大な事件” とは、 “視覚と聴覚を統合するために必要な観念の発生” のことであろう。
   《参照》   『生と死の解剖学』 養老孟司 (マドラ出版)
            【視覚と聴覚を統合するために必要なもの】

 

 

【奇妙な日本語】
 下記リンクの中で書き出しておいた “後回しの理屈” が以下である。
             【読み書き中心の日本語】 
 脳の障害で、失読症が生じることがある。つまり脳の一部が壊れると、字が読めなくなる。ところがこの症状で、日本人だけに妙なことが起こる。失読症が二種類生じるのである。つまりカナ失読と漢字失読である。 ・・・(中略)・・・ 。二種類の失読症が生じるということは、字を読むために日本語では脳のニカ所を使っていることを意味する。 ・・・(中略)・・・ 。世界一般に、失読が起こるのは角回の障害とされている。 ・・・(中略)・・・ 大脳皮質には、解剖学的にそういう名前を付けられた場所がある。そこの障害で、万国共通に失読症が生じる。ただし日本人では、角回の障害で生じるのは、カナ失読だけである。われわれは漢字を、それとは別な大脳皮質の部位で読むらしい。
 それがどうした。どうしたもこうしたも、そこから生じる重要な帰結が、いくつかあると思われる。第一に、日本語は視覚言語、すなわち 「読み」 がきわめて重要な言語だということである。なにしろ読みのために動員している脳の広さが、外国の人とは段違いなのである。だから昔から、日本の教育は 「読み書き算盤」 ではないか。古代ギリシャ人は、雄弁術を習うために月謝を払った。フランス人は、いまでも言語の本質は音声だと固く信じている。ことほどさように西欧語はあくまでも音声中心だが、日本語は違う。その日本語の常識で外国語を勉強するから、日本人は 「読めるけど、しゃべれない」 という症状を引き起こすことが多い。それを日本の英語教育が悪いと非難するのは、ピントが外れている。脳から見ても、日本語と外国語は違う。それをまず認識すべきなのである。日本語でできあがった脳は、外国語をどうしてもまず 「読んでしまう」 のである。(p.171-173)
 日本人だけに特異的に現れる失読症の症状と、脳の処理に関する帰結をまとめると、つまり、角回の障害によって失読されるのは、聴覚系(しゃべり)情報として処理される言語(カナ)であって、視覚系(読み)情報として処理される言語(漢字)は失読を免れる、ということなのであろう。
 日本人特有な “言霊言語脳” の特性は、あくまでも聴覚系情報に依拠するものであるから、上記の記述の中では対象にされていない。 “言霊言語脳” は、日本語に固有な音韻構造に基づいているはずである。
   《参照》   『2001年 世界大終末』 渡部勇王 (廣済堂)

 

 

【型の喪失】
 明治以降の日本社会では、こうした身体表現すなわち型を、徹底的に潰してきた。それは 「封建的」 だとしてきたのである。社会制度は意識的だから、それを意識的に潰すことはできる。しかしそれに伴って、無意識も潰れた。型が喪失したのである。その結果が、以心伝心の喪失であり、不信の発生である。勝海舟と西郷隆盛が、江戸城の明け渡しで、現代的な討論をしたとは、だれも思わないであろう。江戸弁と薩摩弁では、いろいろ通訳が必要だったはずである。その必要はなかった。それが 「型」 の効用である。
 若者の行儀が悪い。電車のなかで足を広げて座っている。これは行儀の問題ではない。「型の喪失」 である。現代の若者もまた犠牲者である。のびのび育った身体を、どう扱っていいか、それを持て余しているだけであろう。同じ大きな身体でも、大相撲がパリに行けばたいへんな人気である。もちろん相撲には、伝統的な型が残されているからである。その型をフランス人が見て、それを理解する。なぜなら型は、身体による普遍的表現だからである。(p.207-208)
   《参照》   『寄り道して考える』 森毅・養老孟司 PHP研究所
             【 「文武両道」 という文化の腰骨】
   《参照》   『「頭がいい」とは、文脈力である。』 齋藤孝 角川書店
             【 「型」の国、ニッポン】

 著者の養老孟司さん、そして高岡英夫さん、齋藤孝さんなど、東京大学に連座する知性たちは、共通して、身体意識と不可分な “日本の型” の重要性を、我々読者に教えてくれている。

 

<了>