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 読書に関して重要なことがいくつも書かれている。こんなタイトルなんだから面白い本とは言えないけれど、ある程度本を読んできた人々なら、「そう、そう」 と何度も頷きながら読める著作である。
 あまり本を読まなくなった今日の大学生をはじめ、多くの若者たちに読書を薦めている著者の本だから、そういった人々を読書に取り込んでゆくための方法も勿論記述されている。

 

 

【読書など・・・】
 私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対しなければいけないものでもない、などと言うのを聞いたときだ。こうした無責任な物言いには、腸(ハラワタ)が煮えくり返る。(p.4-5)
 著者は、別の著作でも同じことを述べている。
   《参照》   『日本語トーク術』 齋藤孝・古館伊知郎 (小学館) 《後編》

              【80年代90年代の空白】

 本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものだ。こう断言したい。(p.5)
 なぜ 「本を読まなければいけない」 かというと・・・・。

 

 

【思考力を養うため】
 読書は思考活動における素地をつくるものだ。もちろん読書をしなくても考えることはできないわけではない。しかしそれは、四股を踏まない者が取る相撲のように、レベルの低いままに止まる。本格的な思考力は、すべての活動に基礎だ。経済活動にせよ、詰まるところ思考力である。日本経済の危機が叫ばれているが、読書力の復活こそが、日本経済の地力をあげるための最良の方法だと私は考えている。(p.7)
 読書、思考力、経済という3つの単語を、私なりにつなげてみるならば、以下のようになるだろう。
 経済と言うのは、単純なお金の流れというだけのものではなく、歴史、文化、心理、技術、思想、政治などあらゆる分野を含む複雑な人間活動の結果であるから、そのすそ野は途方もなく広い。故に非常に多面的な見方が可能である。
 私自身の経験からいえば、全くもって経済に関わる仕事をしているのでないけれど、読書を重ねるに従って、しだいに経済的なことに興味が持てるようになってしまったのである。学生だった頃は、経済なんて全然・まったく・ウルトラ・さっぱり・ミジンコ程も興味が持てなかった。それは経済という分野の全貌を朧げであれ捉えるだけの思考力が、その当時の私にはまだ殆どなかったということを示しているのである。

 

 

【「読書好き」と「読書力がある」は違う 】
 読書好きと 「読書力がある」 は違う。もちろん一致する場合も多いが、好きな推理小説作家の作品だけを読み続けている人は、読書好きとは言えるが、読書力があるという保証はない。(p.7)
 読書力が養われていれば、必然的に広範な分野に意識が及ぶだろう。これはニワトリと卵の関係かもしれない。部分フリークであるなら読書好きに終始し、部分と全体が連結するようになりだせば読書力が付いてきたということになるのだろう。ジャンルが狭いままでは如何ともしがたいのである。
   《参照》   『「頭がいい」とは、文脈力である。』  齋藤孝 角川書店

              【大きな文脈を自分の文脈に繋いで生きる】

 

 

【「読書力がある」の基準】
 私が設定する 「読書力がある」 ラインとは、 「文庫100冊、新書50冊を読んだ」 というものだ。「力」 を 「経験」 という観点から捉えたものだ。(p.8)
 「力」 は 「質」 に、「経験」 は 「量」 に置き換えることができるだろう。
   《参照》   『日本語トーク術』 齋藤孝・古館伊知郎 (小学館) 《後編》

               【「量より質」 ではなくて 「量こそ質」】

 質的な違いがはっきり表れる冊数となると、10冊20冊ではなく、100冊ということになる。 ・・・(中略)・・・ 。100冊ほどまともな本をこなすと、少なくとも本に対する慣れが出てきて、量的な恐れは少なくなっている。日々の忙しさの中でも、本を読むことはさほど苦にならなくなる。読解力という点から見ても、百冊以上こなしている学生とそうではない学生とでは、明確な差がある。(p.26)

 

 

【 the book がないから books が必要だった。】
 古書店の下井草書店の店主さんと話していた際に、日本には聖書のような唯一絶対の本、すなわち the book of books がないから、たくさんの本を読む必要があった、という話が出てきた。これは面白い観点だ。(p.46)
 ドグマなき神道という素地があったからこそ、数多の書物を受け入れることができた。故に、日本人ほど多くの書物に親しんできた民族はないといえるのである。
 そんな日本に住んでいても、本を読まなかったり、狭い範囲の読書しかしていないというのでは、国柄のメリットが生きない。
 読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。(p.51)
 教養のある人で神秘主義のジャンルを経ていない人など決していない。オウム真理教のような宗教に凝って入れ込んでしまう人というのは、客観的に評価すれば教養がないのである。
 宗教遍歴をするにしても、教養と言う視点でいうなら、仏教系から神道系へと遍歴している人はまだしもまともである。逆はおかしい。

 

 

【言葉を知る】
 言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。なぜ読書をした方がよいのかという問いに対して、「言葉を多く知ることができるからだ」 という答えは、シンプルなようだがまっとうな答えだ。(p.67)
 下記のリンクは、呪術的な観点で語られているけれど、国語のルーツは呪術以外の何物でもなかったのだから、書かれている内容は極めて本質的で重要なことである。
   《参照》   『人生の錬金術』  荒俣宏・中谷彰宏 メディアワークス

              【言葉による所有】

 また、知っているボキャブラリーの多寡は、人生の質を定めているという事実は重要だろう。

   《参照》  『本調子』  清水克衛・七田眞・斎藤一人・ハイブロー武蔵・他 総合法令

              【語彙力 <武蔵>】

 チャンちゃんのこの読書記録を読んでいる人の何人かに、「知らない語彙がたくさん出てくる」と言われたことがあったけれど、チャンちゃんの語彙力は大学生時代に99%確定していた。当時は、意味の分からない単語に出会う度に必ず国語辞書を引いていたものである。国語辞書を引いたことなどなく、持ってさえいないのなら、その日本人の語彙力及び読解力は、大したことがないということになるだろう。

   《参照》  『家庭でのばす「見えない学力」』 岸本裕史  小学館

             【言語能力】