《前編》 より

 

 

【自分をつくる】
 自分の体験や経験を絶対の根拠としたがる傾向が、読書嫌いの人には時々見受けられる。こうした自己の体験至上主義は、狭い了見を生む。
 経験していないことでも私たちは力にすることができる。
 自分の中に微かでも共通した経験があれば、創造力の力を借りて、より大きな経験世界へ自分を潜らせることができる。自分の狭い世界に閉じこもって意固地になったり、自分の不幸に心をすべて奪われたりする、そういた狭さを打ち砕く強さを読書は持っている。(p.91)
 あまり本を読まない若者世代の中には、「流行歌の歌詞の一節を心の支えとしてきた」 と言う人々が少なくないけれど、音楽より書物を通じて著者の体験を潜った方が、圧倒的に強く深く心に響く筈である。
 自分だけが悲劇のヒロインであるかのように思っている人に対して、著者は以下の4冊を提示している。

 『生きることの意味』 高史明(ちくま文庫)
 『夜と霧』 フランクル(みすず書房)
 『わがいのち月明に燃ゆ』 林尹夫(ちくま文庫)
 『きけ わだつみのこえ』 (岩波文庫)

 『夜と霧』 に言及している著作は非常に多い。それほど多くの人々は、シンドイ人生を何とか生き抜くために、極限状況にある人々が残してくれた書物を縁(よすが)としてきたのである。

 

 

【読み聞かせの最大の宝庫】
 私は 『宮沢賢治という身体』(世織書房) を書いたときに、宮沢賢治の全作品を読み直し、その創造力の豊かさに改めて共感した。とりわけ素晴らしいのは、地水火風の想像力がまんべんなくしかも高いレベルではっきされていることだ。 ・・・(中略)・・・ 読む私たちのイメージにも具体的な色や音、匂い、暖かさ、冷たさなどがしみ込んでくる。これほど身体感覚をまんべんなく繊細に喚起してくれる文学者は得難い。その意味では、宮沢賢治は読み聞かせの最大の宝庫であると言える。(p.122)
 密教的世界を構成する五大にしたがって “地水火風” とくれば、次に “空” がくるのであるけれど、何故に “空” がないのだろうか。ちょっと気になる。
 例えば、銀河鉄道が走っている世界こそが ”空” の世界ともいえるのではないだろうか。
   《参照》   『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治・原作 ますむらひろし・画 (扶桑社文庫)

   《参照》   『新ミレニアムの科学原理』 実藤遠 (東明社) 《前編》

             【形而上とゼロ】

 

 

【本をめぐる話】
 本めぐる巡る話は、ただ相手の日常生活や趣味の話を聞くだけよりも、情報の中身が濃い。そして、読む気になれば、その本を自分自身が読むことができるのだから、その場の話で終わるわけではない。会話が外に開かれているのだ。(p.171)
 こういった目的のために、著者は授業時間を使って、読んで面白いと思った本をコメント付きのリストにし、それを見せながら話をするという、ブックリストの交換を実施しているという。
 チャンちゃん自身が普通に本を読むようになってしまったのも、大学生になったばかりの頃、同じアパートに住んでいた先輩たちにいろんな話をしてもらったことが、直接の原因だった。
   《参照》   『本を読まなくても生きていけますか?』 久利生たか子 グラフ社  

               【環境よりはきっかけ】

 

 

【本を読んだらとにかく人に話す】
 本の読んでもその内容をすぐに忘れてしまう。そんな経験は、おそらく誰にでもあるのではないか。 ・・・(中略)・・・ 。そのために私が効果的だと思うやり方は、本を読んだらとにかく人にすぐその内容をはなすということだ。(p.188)
 全く同感。記憶している内に一度でも話す機会があれば、記憶は長持ちする。学生時代は文学クラブに属していたからそれができた。そんな相手がいないなら書き残すしかないだろう。だからこんなブログを始めたのである。
 小さい子供のいる家庭だったら、お母さんが、「今日はどうしたの?どんな本読んだの?どんなふうに思ったの?」 とかって、うじゃうじゃ子どもに質問して聞いてあげればいいのである。

 

 

【印象に残る一文】
 本は必ず全部読まなければいけないというものではない。ほんの一行でも一生の宝物になることもある。全部読み切らなければいけないと思うから、読書が進まなくなる。印象に残る一文を見出すという意識で読むのも、読書を進みやすくするコツだ。(p.199)
 全体で特殊な雰囲気を醸し出している著作というのも確かにあるけれど、読み手をステップアップさせるのは、印象に残る一文なのではないだろうか。文学系の著作を読むことが多かった学生時代は、このような一文を発見するためにこそ読んでいたというような面もあった。その一文が何処にあるか分からないから、飛ばし読みとか斜め読みなんて絶対にできなかったのである。
 ちょっと特殊な例だけれど、ニーチェなんて、当時の私にとっては、印象的というか強烈な文章が一文どころか多すぎて、息が詰まったものである。

 

<了>