《前編》 より

 

【個性を持ちたければ “読書“ 】
齋藤 : 伝統を無視するのが個性だと思っている人ほど、言っていることはけっこう平凡だったりする。なぜかというと、伝統を大事にする人のほうがたくさんの言葉と接し、多くの言葉を知ることになるから個性的になるんです。
 読書なんかしなくていいから、もっと自分を大切にしたいとかいう人は、すごく狭い範囲の言葉しか知らないから、使っている言葉は200個か300個の中の順列組み合わせでしかない。だから、どうしても深くなれないんです。
 日常使っている言葉は、普通は500個以内なんですね。そうすると、そこで表現する考えの内容というのは、あらかじめ限定されている。だから、個性的になりようがない。(p.85-86)
   《参照》   『本を読まないとバカになる。なぜか。』  池ノ上直隆  日新報道

             【抽象的・概念的思考】

 

 

【80年代90年代の空白】
齋藤 : 特に80年代の初めのころっていうのは、実体はなくていいんだという開き直りみたいなものがあった。全部引きずりおろしちまえ、一個も権威がなくっていいんだという、引きずり下ろしがずっとおこなわれたんですよね。そのおかげで、何も偉いものなんかないんだ、何も知らなくても恥ずかしくないんだ、になってしまったんです。だから、ある本を読んでいないと恥ずかしいという感覚は、若い世代にはなくなってしまった。何かを知らなくても 「知らないけど、だから何?」 みたいに開き直って、「知らないことが恥ずかしい」 っていう感覚をなくしてしまった20年間だった。
古館 : なるほどね。
齋藤 : あの時期のダメージは非常に大きかった。
 教養はあったほうがいいし、物事は知らないより知っているほうが良くて、そのほうが豊かな人生を送れるのに、それを知らなくていいんだよって言い続けちゃった人たちがいたんですよ。
古館 : いますね。そこに商業も絡んだしね。「感性の時代」 とか言ってね。感性というのは、知識込み込みで感性なのに、みんな自分で天才になれるような錯覚があって 「天才かもしんない的世界」 ってね(笑)。
齋藤 : そう、天才願望が強すぎて、ナイーブさに妙に価値を置くんですよね。
 ナイーブっていうのは、英語ではあんまりいい意味じゃないでしょ。素朴すぎてどうしようもない、単純すぎるという意味なんだけれど。 ・・・(中略)・・・ 。ナイーブなほうがよく分かるという、大きな間違った刷り込みを、この20年間すごく強くやってきちゃったと思いますね。(p.189-190)
 まったくまったく。
 “感性と知識は別々“ と思いやすいけれど、根拠のない思い込みである。例えば、感覚的な広告コピーで20年間を先導してきた糸井重里さんだって数多の本を読んでいるし、少なからぬ漫画家達だって読書の重要性は常々語っている。
   《参照》   『海馬 脳はつかれない』 糸井重里・池谷裕二 朝日出版社

   《参照》   『里中満智子』 杉山由美子  理論社

   《参照》   『入国拒否』 小林よしのり+金美齢 幻冬舎

             【教養に関する対談】

 上記の文章に続いて、齋藤さんは怒りを書きつけている。
 僕が、どうしても怒りを禁じ得ないのはですね、自分たちは本を読んできて、物を知っていて、ジャズを知っていて、映画を見ていて、何でも知っている連中が、そんなものはどうでもいいとか、「教養なんてくそ食らえ、自分の感覚で生きろ」 といったメッセージを発したことが許せないんですよ。(p.190)
 齋藤さんの怒りは良く理解できる。
 チャンちゃんも、恥さらしながら罪滅ぼし的な意図をもってこのブログを掲載している。あまり本を読んだことのない学生が、たまたまチャンちゃんのブログを発見し、リンクを辿って “読書って案外おもしろいかも” と思ってもらえればそれが一番うれしい。

 
【「量より質」 ではなくて 「量こそ質」】
齋藤 : 今の日本は、「量をこなす」 っていうことをすごく恐れていて、大量にやるっていうと、なぜか 「強制的」 というイメージを持つんですね。でも、量をこなさなければ、体力がつかない。そういう意味でも、実力をつけるには、ぼくは量をこなすことが大切だと思います。
古館 : 量が必要なんですよね。でも 「量より質」 っていうのが流布しすぎている。
齋藤 : そう、「量より質」 じゃなくて 「量こそ質」 なんです。量こそ質的変化を起こすっていうのが基本で、量をこなさなければ変化は起きないのに、なぜ、「量より質」 って言うのか分からない。「量より質」 っていうのは、よくないスローガンですね。(p.195-196)
 公文式って具体的には知らないけれど、聞くところによると、まとまった量の問題をいくつもさせるらしい。つまり、これも量をこなすことで、例えば数学の公式の使いかたを覚え、のちに自ずと公式の意味が分かってくる、という道順なのだろう。
 未理解なままでも量をこなしていると、やがて意味が分かり、思いもかけないものが繋がって、質が高まるということは、受験勉強の分野に限らず、そこここで起こっているはずである。 「量こそ質」 という表現は “教養の本質” を言い表わしてもいるはずである。量はスキーマ形成に係わる唯一の因子である。
   《参照》   『「音読」すれば頭がよくなる』 川島隆太  たちばな出版

                【飛躍的成長を可能にするスキーマ】

 昔の人が、内容なんて分かりっこない子供に、漢文古典の素読をさせていたというのと、通ずるところがある。
   《参照》   『超右脳記憶法 実践篇』  七田眞  KKロングセラーズ

                【素読学習の効果】

 

 

【若い女性が買っていく本】
齋藤 : 明治大学の学生に読書のアンケートをとったら、ある女子学生が 「20歳代後半から30歳代の女性が書店で買っていく本は、恋愛指南書みたいなものばかりで、読んでみると異常に誰でもわかるようなことしか書いてない」 と書いていた。
古館 : しかも、スッカスカでね。
齋藤 : 文字の量も内容もスッカスカ。
古館 : 本買ってるというより、紙買ってる感じがするんですよね。(p.199)
   《参照》   『腐女子化する世界』 杉浦由美子  中公新書

            【腐女子の活字消費】

 スッカスカのもので量をこなしても虚しい。基礎はある程度、質の高いものでなくては、積み上げても積み上げてもズブズブと崩れてしまう。

 

<了>