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 マンガ 『台湾論』 で物議をかもし、数週間、台湾への入国を拒否された漫画家の小林よしのりさんと、数十年間、国外追放されていた金美齢さんの対談。
 もう6年も前の本なのだけれど、この本の中で語られている、中国の台湾問題に関する日本への態度と、最低のブザマ国家を維持している 「反日」 韓国の日本に対する態度は、現在においても何の変化もない。
 政治問題に関しては、食傷気味でうんざりである。それ以外の箇所を書き出しておこう。

 

 

【独擅場】
 69ページにこの単語が記述されていて、「どくせんじょう」 とルビがふられている。
 私は 「どくだんじょう」 と読むものと思っていたから、訝って辞書を引いてみた。
 辞書(広辞苑)にはこうあった。 
どくだんじょう 【独壇場】
 ( 「擅(せん)」 の誤読からできた語) 「どくせんじょう(独擅場)」 に同じ。
 つまり、どちらも意味は同じだけれど、良く見ると漢字 ( 「壇」 と 「擅」 ) が違っている。
 しかし、本来は、「どくせんじょう」 であったということである。
 誤読が一般化してしまっていることを知らせたかった出版社さんの善意だったわけである。

 

 

【この感覚は強制では生まれてこない】
 日本統治下の台湾を生きていた、金美齢さんの意見を書き留めておく。
 たとえば私は終戦のとき小学校6年生でした。当時を思い返すと、台湾人の多くは日本人でありたいと思っていた。“二等国民”としての差別や悲哀をいくばくかは味わわされましたが、日本の統治政策がそれなりに現地のことを考え、フェアになされたことも確かだった。少なくとも私より年上の台湾人が、日本人であることを嫌がっていたという記憶はありません。
 1946年の春、私の進学した台北第一女子中学校(旧台北第一高女)では、授業時間以外はみんな日本語で話していました。元一中の生徒が、強制的な中国語教育や中国人としてのアイデンティティを押し付けられることに耐えかねて、日本への密入国を企てているというんです。基隆港から漁船に乗込んで何とか “憧れの日本” に行きたい(笑)
 もし当事の台湾の若者に国籍の選択権の自由があったら、大多数が日本人になることを選んだと思います。
 この感覚は強制では生まれてこない。 (p.110-112)

 

 

【古い世代の台湾人に残っている 「日本精神」 】
 この 「日本精神」 や 「中国式」 という言葉をよく使ったのは、どちらかというとインテリではなく、もっと広範に台湾の普通の庶民でした。生活感覚のある人々が使っていたということは、「日本精神」 が観念語としてではなく、より時代の実相を反映する言葉として台湾人に密着していたということでしょう。
 いま言っておかねばならないと思っているのは、「日本精神」 は主に古い世代の台湾人の中に残っているということです。 (p.282)
 台湾人が使い分けていた 「日本精神」 と 「中国式」 とは以下のような内容である。
「日本精神」とは、清潔・公正・勤勉・信頼・責任感・正直・規律遵守・滅私奉公などの価値観。
「中国式」とは、ルーズ・無責任・不公正・欺瞞的・拝金的 などの意味の総称。 (p.279 p.281)
 先ほどテレビのニュースでやっていたけれど、中国国営のアメニティー施設では、ディズニーやサンリオのキャラクラーを勝手に使用しているという。ロイヤリティーという技術やアイデアやキャラクターに関する利権を踏みにじる中国。資本主義のルールを正々堂々と守らない 「中国式」 に、世界は何時まで黙っているのだろうか。

 

 

【 「日本には何でもあるけれど、希望だけがない」 】
 村上龍の『希望の国のエクソダス』 という本の中に、このセリフがあるのだという。これについて、金さんは以下のように書いている。
 希望というものは自らそれを抱くものであって、他人が与えてくれるものではないでしょう。何を希望し、何を追い求めるかというのはきわめて人間の内面の問題です。 
 中学生から大人まで、何でも国から与えられることに慣れてしまった日本人は、ひょっとしたら希望さえも与えられるものだと思っている。ここにあるのは究極の受身の姿勢です。自ら何かを求め、何かを果そうとする意思の力は感じられない。 (p.227)
 豊かさの中にあって、なおかつ高い志や希望を持つこと、それを語ることの難しさから大人たちが目をそらしている・・・ (p.233)
 金さんの言うことは尤もなのだけれど、「希望だけがない」 というのは豊かさがもたらす不可避な代償なのだろう。人間は、恵まれ過ぎてしまい、生死に直結した意識を保てないと、人生を映す鏡となる魂は曇っしまうものなのだ。
 高い志や希望を持つことを語ってくれそうにない大人たちに期待できないなら、若者は自ら探し求めるしかない。自分で先人たちの志がつづられた本を探す気があるならば、そのような本はいくらでもあるのだから。
 ところで、私は、村上龍さんのその小説を読んでいないけれど、タイトルが、『希望の国へのエクソダス』 でないのが気になってしまう。なにはともあれ、読んでみたい気がする。

 

 

【教養に関する対談】
<金> 教養に対する憧れというのは、その人の知的・精神的領域を本当に広げてくれるものです。私がいま成り立っているのもそれがあったからです。
 心配なのは、携帯電話やインターネットが普及して非常に手軽に知識や情報が手に入るようになったことで、“自分をつくりあげていく” という意識がないこと、その手軽さゆえにじっくり考えたり、練り上げたりということをしなくなるのではないか、思索が安易で、思想も貧困になるのではないかということです。
<小林> 漫画の世界でもそれは言えるんですよ。いま漫画を描き始める人というのは、だいたい漫画を読んで漫画を描くというパターンなんです。これではだめなんですよ。
 もっと本を読むとか、映画を見るとかして知識の蓄積、教養の裏打ちをしていかなければいいものは生み出せない。
<金> 「本を読むことは他人の人生を知ることだ」と私はよく学生に言うんです。実際の自分の人生は一回しかないわけで、そうそう冒険や、実験に費やせるものではない。・・・・いくつもの人生、苦悩や、愛や、悲しみといったものを、時空を超えて知ることができる。
 私は金さんが最後に書いていることが特に良く分かる。若い頃、小説を読んでいると、その世界に入ってしまうことがよくあった。年齢が長ずるに及んで、本を読んでいても、青年であった頃の没入感が持てないことをとても残念に思う。10代・20代で本を読まないなんて、圧倒的に、どうしようもなく、涙チョチョ切れてしまいそうなほどに勿体ないと、心の底から思う。

 

 私がこの本を読んでいたのは、ブラリと台湾へ出かけた飛行機の中である。読んでから10日も過ぎてこの記録を書いている。政治的なタイトルであるるけれど、その内容を除いても、若者向けに優れた内容を多く含んだ本だった。
 
<了>