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 『希望の国のエクソダス』 という小説は読んでないのに、その小説の基となったこの取材ノートを先に読んでしまった。勿論、そうであっても有意義な本だからこそ出版されている。
 著者が、それぞれに異なった分野の13人に取材したときの対談集である。村上龍さんは、現代を生きている青少年たちに真摯に関わって執筆活動を行っている。尊敬に値する作家である。

 

 

【絵空事ではない 『希望の国のエクソダス』 】
[寺脇] 私はこの小説をすごくリアルな小説だと思って読んでいるんです。例えば、今までは子供は大人に従うという前提があったわけですが、コンピュータなどのデジタル・ツールを使いこなす能力では子供が大人を遥かに凌駕している今の現実の前で、その前提にいかほどの意味があるのか。いったん子供たちが「もう大人たちには依存しない」と腹を決めたら、相当なことができるはずなんですね。「こんなのは絵空事だ」と笑ってすませられる時代ではないことは確かなんです。
 だから逆に、「文芸春秋」を読んでいるおじさんたちはそのことをわかっているのかなあ、と考えちゃいますよね。 (p.124)

 

 

【個を溶解する “市場原理とネットワーク社会” : 個を守る “引きこもり” 】
[村上] ・・・・・ショックです。中学生がやらなくても、すでに社会が姥捨てをやっているんですね。
[金子] 老人達をベッドに縛り付けるのだってコストの問題です。それが市場原理、経済合理性の行き着く先なんです。これが我々の社会が選択したことなんです。
 エンジョ交際も臓器売買も市場原理に他ならないんです。自分の身体に値段がつけば、その瞬間自分の身体は誰とでも交換可能になっちゃう。自分の固有の領域がなくなる。するとその領域を守ろうとするばかりで、外に開いていかない。
[村上] 引きこもりって当たり前のことなんですね、そう考えると。
[金子] そうです。家族の解体も共同体の解体も、市場原理の浸透に根ざしている。宮台(真司)さんは、「エンジョ交際は自己決定の問題だ」と言っていましたが、価格が決定しているだけで、自己決定の問題なんかじゃないんです。
 携帯電話もそうです。あれは何も繋がっているわけじゃなくて、狭くなった個の領域を死守するために、お互いに距離をおいているわけです。けれど他者の内側に入らず、また自分をさらけだすこともないわけですから、最終的には自己と他者の領域も溶解してしまう。
 ネットワーク社会の最大の問題はまさにそこにあって、中学生達は老人をいじめているんじゃなくて、ただ他者との共感ができないだけなんです。公共性が成り立つはずないんです。
[村上] 恐ろしいことに他者に共感できない、つまり他者の存在を認めない子供が今、次々と事件を起こしつつある。
 かといってフェース・トゥ・フェースのコミュニケーションを、といったって町内会と何が違うんだという話しになっちゃいますよね。
[金子] そうなんです。だからそのジレンマをどう超えていくか。市場原理から排除される人間同士のコミュニケーションをいかに再構築していくか。それが村上さんの小説の中の中学生が取り組むべき課題かもしれませんね。 (p.148-149)
 市場原理やネットワーク社会を、“個を優しく包み込むはずの共同体” に対する背理として捉えているこの対論の要旨はよく分かる。
 『給与明細』 というテレビ番組を見ていたら、裸体を晒すAV女優の供給はいくらでもあるため、今や市場価格ははなはだしく下落しているのだという。そんな価格にも関わらず出演する女性達は、市場原理に即した生き方を選んだ者達なのであり、個性や感情と言った人間を人間たらしめている因子は既に消えているのである。まさに魔界である。

 

 

【友達が目的化している若者達】
[村上] 高度経済成長を経て、とりあえず近代化が完了したとき、そうした国家的モチベーションを喪失しただけではなく、そのことにさえ気付いていないというのが我々の置かれた状況だと思います。
[中江] それはすごく分かります。
[村上] 僕の息子は、・・(中略)・・目標を見つけると孤独になる、と言うんです。友達と曖昧な付き合いができなくなるって。・・(中略)・・無理もないことで、日本における友達とは、目標のない人が集まって何らかの曖昧な価値観を共有している、ということですから。
[北野] 今の若い人たちを見ていると、少なくとも表面的には非常に友達というのを大事にしていますね。キツいことを言って相手を傷つけることをすごく恐れている。友達が目的化しているんですね。 (p.178)
 目標や目的のわからない個人というならまだ分かるけれど、目標や目的のない人が集まっている友達という集団はそら恐ろしいほどに不気味である。いずれにせよ精神の砂漠化という形容を思いつく。砂漠からは何も生まれない。
 しかし、私には、砂漠を思わせる現代の若者達を、『希望の国のエクソダス』 へと向かわせる著者の構想力は、若者達の潜在的な能力を高く評価しているのでなければありえないものに思えるのである。
 
<了>