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 タイトルだけ見て、「今や日本の女性はそこまでヒドイのか」 と思ったけれど、そのような意味ではなかった。むしろ社会の実状と女性の意識のあり様が良く分かって良い本だった。

 

 

【腐女子】
 「腐女子」 というインパクトの強い単語は、オタク女性たちが 「私たちは腐っているらしい」 と自嘲的に言いだしたことから生まれた。今、彼女たちの多くは自らを 「腐女子」 といい、そこには楽しげなニュアンスすらある。(p.8-9)
 オタクなどといえば、一般的には男性かと思ってしまうけれど、そんなことはないらしい。
 ジャニーズのコンサートや演劇のチケットは入手が困難な場合が多々ある。チケット販売時には信じられないぐらいの行列ができる。それは、真冬だろうと真夏だろうと関係ない。その熱心さは男性が女性アイドルを追っかける比ではないのだ。
 オタクになる素養は、女性のほうが強いくらいなのである。(p.23)
 ちょっと意外に思うけれど、冷静に考えたらそうかも・・・。
 SNS(ソーシャルネットワーキングサイト)の活用も腐女子のパワーの源になっているらしい。
 特に腐女子といわれる人たちは読書量が豊富なうえに、趣味で小説などを書いている人も多いので、ブログの文章もうまい。自分のブログにアクセスしてくれた他者を楽しませようという心意気がある。おもしろいブログには人が集まるので、コミュニケーションも生まれやすい。
 オタク事情に詳しい精神科医の斎藤環も、 『産経新聞』(05年7月17日付)で 「オタクは男性より女性のほうが多」 いと指摘している。 (p.25)

 

 

【腐女子の生態】
 東池袋にある腐女子向けの同人誌ショップは、入り口を表通りから見えない場所にしたところ、急に客が増えたという。(p.34)
 理由としては、まず、女性が男性よりも他人から批判されることに対して過敏だからだろう。日本では 「オタク」 という言葉にネガティブなイメージが強い。なので、腐女子たちは 「オタク隠し」 をするのだ。また、彼女たちは日常とは 「別の顔」 をもっていることを楽しんでいるという面もあるだろう。(p.36)
「腐女子って輪ゴムで髪を束ねているようなイメージがありました。でも、実際、取材すると若くてかわいい女性ばかり。彼女たちの輪に入って行くと良い香りがするんですよ」 (p.38)
 へぇ~。
  「腐」 という漢字のイメージとは全然マッチしない。

 

 

【腐女子が求める妄想】
 腐女子たちも 「現実の恋愛」 とは別に 「妄想の恋愛」 を求めているのだ。そして、その 「妄想の恋愛」 の中に自分は登場しない。(p.39)
 ”バーチャル・リアリティー” ではなく “妄想” という言葉が一貫して用いられている。 “自分は登場しない” というのが腐女子のポイントらしい。自分が登場してしまったらバーチャル・リアリティーになってしまうということか。
 だからこそ、腐女子たちは、「やおい」 とか 「BL(男性の同性愛物)」 の圧倒的な読者となっている。「同性が登場しないから感情移入せずに妄想できる」、ということだそうである。
 婦女子を取材して感じるのは、彼女たちは、現状(現実)への肯定が強いことである。既婚女性たちは旦那さんを大切にしているし、恋人のいる女性はみな一様に恋人を 「優しい」 と褒める。夫や彼氏がいない女性もそれにたいして不満や不自由さを語らない。端的にいうと 「関心が妄想(物語)の男性にいっているので、現実の男性への欲求が低い」 のである。(p.120)

 

 

【腐女子の活字消費】
 若い世代、とくに女性は活字を多量に消費する。しかし、その現象が目立たないのはなぜか? 理由は、一般に認知される本は 「メディア」 で取り上げられる本であり、それらと売れている本、多くの読者に読まれている本が違うからなのだ。(p.88)
 なら、どういう本が売れているのかというと、
 『AERA』(06年3月6日号)に掲載された 「キラキラ教祖でハッピー近道」 という記事。大手書店の女性向け自己啓発本コーナーの華やぎが紹介される。昨今の自己啓発本の特徴は、ストイックな精神論ではなく、「開運」 を説く内容が目立つという。(p.88) 
 佳川奈未 や 浅見帆帆子 といった人々のことらしい。
 彼女たちの書く本は、活字量はそれほど多くなく、厚くなく、分かりやすく、奥深さもない本である。一般書籍は220ページ前後で、それが標準なのであろうけれど、内容をもっとコンパクトに圧縮したほうがいいと思うことはしばしばある。彼女たちの書籍は、120ページ程度で作られているけれど、奥深さがなさすぎる。決して高品質とは言えない。それだけはハッキリしている。
 腐女子たちが、いくら活字を多量に消費していても、このよう著作ばかりというのでは、ちょっと・・・と思ってしまう。まあ、要は、腐女子と言われる人々は、活字を消費するにしても “現実的” なのだろう。 男性が書物に期待する “知の楽しみ” というところはどうやら不問らしい。

 

 

【自分に興味がない】
 この 「自分に興味がない」 という感覚を精神科医の香山リカは 『生きづらい<私>たち』(講談社現代新書) の中でこんな風に書く。
「こんな話をすると精神科医として信用を失うかもしれませんが、私は子どもの頃からあまり深く悩まない性格で、自分自身にはあまり関心がなく、プロ野球だとかプロレスだとか、そのときどきの趣味の世界のできごとに一喜一憂しながら暮らしてきました。いわゆる “オタク体質” というのでしょう」
 ここで香山が述べる 「自分に興味がない」 という “オタク体質” は、腐女子の特徴とも言える。1990年代に 「自分探し」 をしてきた女性たちはなぜここに来て自分に興味を失っているのだろうか。(p.142)
 89年のバブル崩壊まで豊かな社会だったのだから、その余韻は90年代まで続いていた。だから 「自分探し」 などと悠長なことを考えていられたのだろう。しかし、不況は長引き、格差社会が歴然と表れて、露骨な現実に直面しているのだから、「自分探し」 云々などと言っていられるわけないのである。

 

 

【個性化より全体主義】
 『幸福論』 で、中村うさぎがこんな女性の話を紹介している。
「このあいだ25歳のライターの女の子と話していて、その女の子が、自分たちは個性化、個性化といわれて育ったと言うんです」
・・・(中略)・・・ 
「で、そのへんから先は彼女の特殊な価値観になって行くんじゃないかと思うんですが、彼女、今、自分たちに必要なのは愛国心だと言ったんですよ。全体主義に戻りたいと言うんですよ。大義がほしい」(p.143)
 腐女子全体の平均的意見とは思えないけれど、陰と陽がそれぞれ極まれば他に転ずるのだから、この想念転換は普通に起こりうることである。核家族化し、個人と周辺社会との関係も薄れてゆけば 「義」 も薄れて、一挙に 「大義」 を希求する。自分で老いた親の扶養ができない経済状態になれば、全体主義的な国家福祉を期待するようになるのと同じである。

 

 

【降りている腐女子】
 かつて、「女を棄てている」 という表現があった。それは女性誌が提示する 「美しさ」 「恋愛体質」 などのモノサシから外れることを指した。(p.186)
 女性のオタクたちの 「腐っているし」 というのは、この女性誌が煽ってきた 「競走」 から降りることである。(p.186)
 格差社会状況が進行し、正社員と派遣社員では競争にすらならない。地位と経済力が固定化した社会になってしまっているのが原因である。
 女性(腐女子)たちは、競争社会を降りて “妄想世界” に、男性たちは日本を降りて “海外” に生き場所を求めているのだろう。
   《参照》   『日本を降りる若者たち』 下川裕治 講談社現代新書
 健全な現実逃避は、むしろ腐女子の方ということらしい。
 女性のオタクたちは自分らを 「腐女子」 と呼んでしまう自虐性がある。それは客観性や冷静さにもつながる。
 その客観性や冷静さが持てるのは 「物語」 の世界に身をゆだねることで、つかの間、異次元に逃避し、そこから現実の自分を俯瞰できるからではないだろうか。
 現実で地に足を付け平凡な日常をキチンと営んでいくために、現実とは違う 「物語」 を必要とする。そういう健全な現実逃避をすることができるのが 「腐女子」 のスキルなのである。(p.200)
 
 
 

<了>