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 養老孟さんの本 ( 『運のつき』 ) に、「 『声に出して読みたい日本語』 の著者の齋藤孝さんは、もともと武道家ですよ、国語の先生じゃない。国語の半分は体育なんです。」 と書いてあったから、この本を探して読んでみた。
 高岡英夫・著   『意識のかたち』  に呼応する内容に満ちている。
 養老さん、高岡さん、齋藤さん、いずれも東京大学出身者だからなのだろう。身体意識に関するそれぞれの見解を知りつつ自分の見解を確認していったらしい。記述内容が相互に呼応している。
 三者の本を読んでみて、身体意識と視覚(空間)と聴覚(時間)と江戸時代が一連のものとして繋がった。

 

 

【 「気」 の文化を根底で支えていたもの】
 「気」 の文化を根底で支えていたのは、腰肚文化で培われていた身体感覚である。だが戦後教育において、武道や暗誦・朗読、四股、座禅、呼吸法といった、それまで脈々と続いていた日本人の身体文化は切り捨てられ、生活環境の激変とともに、「気」 に関する感性もまた急速に衰退していった。 (p.34)

 

 

【集中力と脳力は、「気」 が媒介する】
 よどんでいる気の流れをよくすれば、集中力は高まりどんどん脳は活性化するし、それは場全体に広がる。(p.21)
 「頭の悪さ」 は 「気の巡りの悪さ」 に呼応している。これに即すると、「性格が悪い」 = 「頭が悪い」 はやや言い過ぎだろうけれど、基本的には否定しようがない。気が巡っていなければ、周囲に対して気働きができないからである。

 

 

【神経過敏は気働きの逆か・・】
 人から何かされるのを待っているのではなく、場を見て、さっと挨拶を交わしたり、人を紹介しあったり、その場を少しでも生産的なものにしようと、つねに気を配っている。そういう人の周りには、常にいい気が流れている。気遣いに秀でているため、人望もあり、信頼も厚い。
 最近は過敏で神経質な人が非常に多いが、そういう人が気配りができるかというと、結構そうではないことも多い。自分自身のことには非常に関心が高いが、他者への関心は薄い、つまり自分のことだけ敏感になる人が増えているのである。 (p.56)
 ジコチュウー(自己中心的)な人間の増加は、なるほど身体意識の衰退と呼応している。
 レスポンスの良い身体を保っているならば、「気」 が巡っているから、神経過敏になどならない。

 

 

【 「気」 の出所を探る文脈力を鍛える国語】
 「国語」 は、言葉を手がかりにして感情を読み解く訓練をする、きわめて重要な教科である。そういう大元の「気」の出所を探る文脈力は、社会で生きていくうえで非常に大切な能力だ。そういう意味で、「国語」 はもっとも重視されるべき教科である。 (p.70)
 「気」 は感情に連なっている。論理力だけで文章を解釈しようとしても、完全な理解は得られない。本質的には、感情が論理を支配しているからである。
 論理を駆使している人の感情を理解しようとすると、より完全な理解が得られる。論理的な文章を理解するコツは、著者の感情理解にある。 (p.69)
 「気」 のセンスを磨けば、レスポンス(響き)の良い身体になる。
 響きのいい身体を作るのに最適なメニュー、それが音読だ。
 私が 「声に出して読む」 ことを推奨したのは、声を出すということで、からだの感覚が開かれるということを、みんなが見失いつつあるように思われたからだ。上質な言葉との出会いは、気のセンスを磨いてくれる。 (p.160)

 密教の世界に参入すると、身体の驚くべき様相を体験することができるけれど、その様相を生じさせるのは「気(=エネルギー)」。密教は、「身・口・意」の「三密」を使って鍛錬するけれど、「口」は、マントラ・声明・真言などを繰り返し唱えることで行われる。「声に出して読む」ことで聴覚を駆動させ脳を励起させている。それによって、脳の周波数が変わると気が変わる。

 さらに、深い意味を咀嚼して発せられる上質な言葉は、魂の言葉となって、繊細なエネルギーを持つ言霊になる。高度なシャーマンさんは、高度な国語力を持っている。

 

 

【声の張りは 「気」 の張りだ】
 NHKのある番組で、漫才師や落語家などいろいろな声を赤ちゃんに聞かせて、どんな声に反応するか実験していた。結果は、狂言師の声が聞こえた途端に泣き止んだ子がいちばん多かった。
 狂言師と他の声とのいちばんの違いは、圧倒的な呼吸の深さである。非常に豊かな倍音で深い響きをもって声が伝わってくる。赤ちゃんのからだは何のこわばりもなく、非常に響きがいい。だから、からだに伝わるいい声にとても素直にレスポンスする。 (p.155)
 恋愛感情がとことん枯れてしまうと、バラードが歌えなくなるし、聞いていても心に響かなくなる。声と感情は顕著につながっていて、「気」 に反映する。「気」 が枯れてくると、声も枯れてしまう。声美人は運がいい。

 

 

【肚と背中の身体意識】
 お腹の臍下丹田を中心とした軸がどちらかというと、坐の文化の基盤だったのに対し、この背中側のポイントは、「立つ・動く」 身体文化において重要な役割を果たしているといえる。 (p.166)

 臍下丹田を中心とした腰肚(こしはら)の構えができた人は、自然と背筋が伸び、背中のセンサーがしっかりしている。(p.164)

 教育者の森信三は、戦前・戦後を通じて、「腰を立てる」 ことが気力の元だという発想で、幼い頃から腰骨を立てる習慣をつけようと推奨した。
 腰骨を立てて背中を意識すると、意識の覚醒がある。
 背中感覚を開くには、臍下丹田のちょうど後ろの背骨の一点を意識するとよい。・・・(中略)・・・。ここは、上半身と下半身をつなぐからだの中枢ポイントである。 (p.165)
 子供を 「おんぶ」 して育てていたお母さんの姿勢は、腰を立てるという身体意識に裏打ちされていた日本文化の姿だった。
 背中感覚のしっかりしている人は何よりも、声に張りがある。美しい響きがある。
 立つ・歩く・動くといった動的な身体運動において、とくに背中の感覚は大切だ。こうした身体感覚は、できるだけ小さい頃から意識させるほうがいい。解剖学者の養老孟子さんも脳科学者の茂木健一郎さんも、子どもの頃にどれがけたくさん遊んで身体感覚を育ててきたかが大事だと言っている。日本では背中センサーを開く遊びも多かったが、幼少の頃に生身のからだを通して味わった感覚は一生定着しやすい。 (p.177)

 

 

【背中の身体意識を鍛えた子供の遊び】
 「だるまさんころんだ」 でも、背後の感覚やみんなの気を察する感覚が試される。・・・(中略)・・・。気のセンスを試し合うことは、子供にとって非常に面白い遊びだった。そういう能力が大事だと思われていたから、遊びになっていた。遊びを通じて背中側のセンサーを鍛えていたのだ。 (p.47)
 「かごめかごめ」 にしても、「ハンカチ落とし」 にしても、背後の気配を察知する遊びである。

 

 

【日本語力の衰退は気のセンスの衰え】
 若者たちのあいだでは、感情を表す語彙がどんどん少なくなり、表現力が非常に乏しくなっている。私は、「イケてる」 「ウサい」 「ムカつく」 といった、ここ十年頻繁に使われるようになった言葉について調査した結果、使う日本語が変わると身体感覚が変わり、対人関係のあり方にまで影響を与えてしまうことに気がついた。
 1日に10回も20回もこうした単純な語彙で感情を処理してしまっている若者たちは、他人への繊細な思いやりや自分の感情をコントロールする能力を自ら低下さている。気配りの心と言語能力というのは、密接に結びついているのだ。 (p.186)
 団塊の世代では、まだ日本文化に根ざした語彙が多く語られていたはず。戦後教育が浸透して、団塊世代の子どもたち世代の語彙が貧弱になってしまったのだけれど、その子どもたちが使う繊細ならざる下品な言葉に、親たちはさして日本文化の衰退を感じていないのだろう。
 素行と言葉遣いの悪い子どもの親たちほど、自己責任の意識はなく、かつ日本文化に関する不見識の自覚もないから、とことん辟易するものである。
 
 
<了>