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 『気の力』 の内容にかなり重なっている。

 

 

【どうして歩くのか】
 子どもの場合には、長く歩く経験が物事に対する粘り強さを育てる面がもっと見直されてよいと考える。歩くことは運動能力以上に、粘り強い意志の力と深く関係している。(p.36)
 大学1年に入った時、新歓深夜歩行というのがあった。先輩ともども夜キャンパスを出て、朝方、目的地の海岸に着くまで30km程をひたすら歩いたのである。全国から集まってくる学生同士、友人をつくるために話す機会という認識で参加していたけれど、今、この行事が残っているかどうか知らない。
 全国的に、この様な長距離歩行に関する学校行事は、「安全がどうのこうの」 という身体感覚のマヒした過保護な保護者の意見で、バンバン潰されていることだろう。
 世界中に見られる巡礼は、聖地に至る目的とともに、長い距離を聖地に向かって歩き続けることに大きな意味がある。歩かずに車で行くのであれば、巡礼にはならない。雑念の少ない境地に入るためには、座禅によることもできるが、長い距離を歩くこともその方法となる。・・・中略・・・。
 精神の安定と深い関係にあるニトロセン神経系は、一定のリズムの反復行為によって活性化しやすいと言われている。規則正しい呼吸や歩行は、脳内神経という観点からも精神の安定をもたらしやすいと言える。(p.44)

 

 

【磨くという行為】
 「人間を磨く」 「技を磨く」 「研鑽を積む」 「練磨する」 「切磋琢磨する」 などどいった表現は、この50年で急速に使用頻度が減っていった。人間を磨くや切磋琢磨といったまじめな生き方が、茶化されて気恥ずかしくなったことの要因としてある。しかし、根本的な要因は、磨くや研ぐという動きが実際の日常生活で少なくなってきたことにある。(p.70)
 なるほど確かにそうであろう。磨くや研ぐという身体行動は、さまざまな便利な器具に囲まれて、日常生活の中で行う機会がなくなっている。
 哲学者スピノザはレンズ磨きの職人であり、宮沢賢治も宝石を磨く技師をめざした時期がある。磨きあげていく行為が精神に与える影響には大きなものがある。(p.72)

 

 

【身体知の巨人】
 幸田露伴は確かに大文学者である。しかし私が考えるに、幸田露伴が21世紀の日本において持つ意義は、文学者として以上に、「身体知の巨人」 としてである。身体知とは、実際に体を動かすことを通して身につけられた知恵のことである。露伴は、大インテリであるが、同時に生活上の技術の達人でもある。理にかなった動きを技と呼ぶならば、露伴は生活上の技を数多く体得している。
 露伴は娘の文にその生活の技を伝授した。幸いなことに、文は文学者となり、優れた文章でその当時の身体知の伝承を記した。・・・中略・・・。幸田文が遺した露伴の身体知の伝承の仕方は、おそらく21世紀に日本の身体にとって、もっとも重要なテキストの1つである。(p.94)
 渡部昇一先生は、新渡戸稲造の 『修養』 や露伴の 『努力論』 といた書籍を進めているけれど、大インテリでありながら、同時に身体知で生きていた時代の人々の著作であることが共通している。

 

 

【反復練習はなぜ必要か? : 量質転化】
 反復練習が続けられると、その動きはやがて無意識の領域へ沈澱していき、技として定着する。これが技の量質転化ということである。 (p.136)
 イチローが、基本的なフォームから外れた振り子打法を変えることなく貫けたのは、自分自身の体の感覚を意識していたからなのだろう。量質転化する程までに繰り返されたスイングの回数は、おそらく球史に残る記録と共に世界一のはずである。
 私は、いわゆる勉強は、スポーツの上達と同じ構造をもっていると考えている。上手に基本を設定し、基本を千万単位で反復練習することの大切さを身をもって確信すること自体が、学校教育の主たる目的だとさえ言ってもよいと考えている。何かができない状態からできるようになるためのプロセスには、同じ構造があるのである。(p.138-139)
 公文式教育は、この身体知を用いた反復練習を技化している。
 少しばかり知的に秀でていると、反復練習の深遠な効果を軽んじるので、結果として凡人止りである。

   《参照》   『ひきこもれ』  吉本隆明  大和書房

            【10年継続することの意味】

 

【日本文化における身体性と精神性】
 武道・芸道の稽古を続けていると、心身ともにコンディションの良くない日が時折ある。そのようなときには、心だけを先に調えるのではなく、腰腹の構えを整えることによって逆に心が整ってくる。
 日本文化は精神主義的であるとよく言われる。しかし、日本における精神性の多くは、その基盤として具体的な身体技術をもっている。身体の構えを整えることによって、心のあり方を整えていくというのが、むしろ日本文化の主流である。身体性と精神性は二分法で考えられるものではないが、あえて分けるとすれば、日本文化は身体性が重視された文化である。身体性と精神性を結びつけているのは、身体的な状態感が生む気分である。(p.145)
   《参照》   『人生を愉しむ50のヒント』  中谷彰宏  三笠書房
            【人生を愉しんでいる人は、椅子に坐った時に姿勢がいい】

 

 

【勝海舟のコツ】
 勝つにとって、コツということは呼吸とほぼ同義である。実際、『氷川清話』 には呼吸と書いてコツとふりがなを振ってあるケースもある。勝つの場合は、剣術を徹底的に修行したので、相手との駆け引きや押し引きのコツは、まさに呼吸の問題であった。(p.171)
  “気を読む“ の、最も具体的次元の ”気“ が ”呼吸“ である。

 

 

【教育方法】
 優れた文章がもつ言葉の力は、子どもの身体感覚に訴えかけ、心にインパクトを残し、未来への予感を抱かせるはずである。比喩的に言えば、十の内容しかないものを一生懸命やっても8か9にしか至れないが、百の内容のあるものと出会えば自然と20ぐらいを得ているということである。・・・中略・・・。無謀なようであるが、伝統的な武道・芸道の上達論としてはむしろ当然の考え方である。「満足できるわからなさ」 というものがある。やっていることの意味は、あとからわかってくるという上達論の考え方には、深みがある。(p.238)
 上述の内容を実証する、ノーベル物理学賞を受賞した湯川博士の漢文素読に関する見解も記述 (p.118) されている。
   《参照》   『超右脳記憶法 実践篇』  七田眞  KKロングセラーズ
                【素読学習の効果】

 最近の学校では、10与えて10のまとめまで教師が記述して教えていることだろう。噴飯ものの光景である。
 

【「生の美学」】
 暗誦した章句は、生き方の美学に影響を与える。大人であれば、自分の生き方の美学を支える言葉を、ある程度心の中に培っているものであろう。しかし現代日本においては、暗誦されるべき古典が共有されていないので、社会全体の 「生の美学」 の共通基盤が形成されていない。現在の親世代は、自分自身が暗誦するという身体知の伝統を引き継いではいない。したがって、親子でともに覚える気になるような暗証テキストが望まれる。(p.241)
 繰り返しや古典の暗誦を軽んじて 「生きる力」 などと言いながら、基礎のない子どもたちにますます空虚な時間を費させておけば、さらに空っぽになるだけではなく、「生の美学」 すら失われて行くことになる。
  《参照》  『日本は没落する』  榊原英資  朝日新聞社  <後編>
            【教育の基本】
 
<了>