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 連日の中谷書籍。同じコンセプトのタイトルなのに、出版社が違っている。この本は、読者を限定していない。しかし、著者の大方の読者は都会派OLなのだろう。

 

 

【待ち合わせをする時は・・・】
 待ち合わせをする時は、時計ばかり見ないで、空を見よう。夕焼けに気づかない人は、人生の愉しみを捨てている。 (p.18)
 「待ち合わせをするのが、昼間だったら、どないすんねん」 などとツッコミを入れたくなってしまうけれど、この書籍の趣旨である 「人生を愉しむ」 というノウハウは、大方、時計ではなく夕焼けに視点を移す、というような些細な意識の向け方の変更で得られるものなのである。そんな具体例が、2ページごとに簡略に記述されている。

 

 

【 「で」 と 「が」 は大違い】
 「コーヒーでいいです」 という人は、おいしいコーヒーを出してもらえない。「で」 と 「が」 は大違い。(p.42)
 コーヒー専門店ならば、このようなお客は、お店に好かれないだろう。
 面倒をかけることの気遣いで 「・・・でいい」 と言うのならまだしも、横並びの意識で 「・・・でいい」 というような人は、今時、没個性的でマイナスな印象を与えかねない。
 仕事の打ち合わせで喫茶店に入った時、顔見知りの男ばかりだと、ぶっきらぼうに 「で」 も 「が」 もなく、かつ互いに隣の注文に無関心に 「コーヒー」、「コーヒー」、「コーヒー」・・・と同じ単語が繰り返される。ウエイトレスさんは、「コーヒー、5つですね」 と言うから、チャンちゃんは、 「ううん、コーヒー1つ、ちょっと美味しいコーヒー1つ、かなり美味しいコーヒー1つ、すっごく美味しいコーヒー1つ、そして、山が崩れて海が裂けちゃいそうなほどに美味しいコーヒーが1つ」 と、最後に自分を指差して言い換えたことがある。仕事のことで頭が充満していた連中は、「馬鹿か・・・」 という顔をしていたけれど、ウエイトレスさんは注文の言い換えに失笑しながら 「はい、わかりました」 と言っていた。
 普段は無神経であっても、おしなべて無神経なヤツラの集団に属するとそこから出たくなり、妙なサービス精神が蘇るものである。
 少なくとも “うんざりするような連中のワンパターンな注文を、おのおのにデコレイトして翻訳(?)注文すること” で、チャンちゃんとウエイトレスさんは 「人生を愉しんだ」 のである。

 

 

【人生を愉しんでいる人は、椅子に坐った時に姿勢がいい】
 あなたは今、どんな姿勢で座っていますか?
 動かないで自分の座っている姿勢を確認してください。
 椅子に座った姿勢を見ると、その人が、人生を愉しんでいるかどうかがわかります。背中を曲げて、前かがみになっていませんか?それとも、お尻が椅子の前のほうにすべり落ちて、背もたれに頭がついてしまっていませんか?
 ・・・(中略)・・・。
 人生を愉しんでいる人は、椅子に座った時、ちゃんと背筋が伸びています。
 逆に、椅子に座る姿勢がよくなると、何をするにも、愉しくなってくるのです。 (p.61)
 著者は理屈っぽく語らないけれど、これは、身体を巡る 「気」 に関わっている。腰骨が立ち、背筋が伸びている状態でないと、身体を循環する 「気」 が巡らなくなり、魂の輝き、精神の鋭敏さが失われるからである。そうして感性が鈍れば、頭の回転も鈍り、総じて物事に対する興味は薄くならざるを得ない。結果として人生を愉しめないのである。
    《参照》   『気の力』 齋藤孝  文藝春秋
             【肚と背中の身体意識】

 いつも姿勢のことを考えると、着崩れを起こしやすい和服は、姿と形(身だしなみと姿勢)の両面から、日本人の “凛とした魂” を維持する機能を荷っていた事を思い起こす。和服を着用しようとすれば必然的に姿が美しくならざるをえない。例え洋服であっても女優さんは常に姿勢に気を配っているのは分かるけれど、和服ほどには姿勢の美しさが映えないものである。
    《参照》   『しつけのない国、しつけのできない人びと』 中村喜春 海竜社
             【着物の効用】

 人の精神は、言葉(道徳)によって律するという方法だけでは、効力を期待できない事が多い。具体的に拘束性をもつ衣服(和服)の着用で、身体意識を通じて精神を律するという方法は有効なのである。どうしようもなくだらしない子供は、厳しい指導者のいる剣道場に通わせればいいのである。強固な胴衣に身体を拘束されながら汗を流すことで、おのずと “姿勢” から変わり、やがては “至誠” の意味を知るようになるだろう。
 
<了>