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 通常ならば最も読む気になれない分野の書籍だけれど、日下公人さんの 『「逆」読書法』  に “自分で読もうと思わない本を読むというのが逆読書術の ”奥儀” なのです。“ とあるのを思い出して、手に取ってみた。齋藤孝さんが対談者であることも誘引かな。

 

 

【恋愛資本主義体制下で、自信を持つために】
齋藤 : 男性にとっても、一線を越えるかどうか、そこには大きな垣根があります。その垣根を上手にクリアして、セックスとは、女性とは、こういうものなんだと分かってしまえば、あとは余裕を持って上達していけばいい。しかし、最初の垣根を乗り越え損ねてしまうと、乗り越えるのが大変なことになり、妙に妄想だけがふくらんでしまったりするのです。資本主義の論理と同じで、経験値の高い男はどんどん経験を増やしていくのに、出だしに失敗した男はいっこうに経験が積めない。そういう二極化構造が進んでいるわけです。(p.30)
 これとまったく同じことは、三島由紀夫の “イケズ書“ である 『不道徳教育講座』 の中にも書かれていた。
 “資本主義の論理と同じで” という記述にちょっと “ヒヤッ” とするけれど、 “経験という富は、雪だるま式に大きくなり価値を増す” と言っているのだろう。
 最初の垣根を越え損ねると、人間って、純粋が保てるのではなく、偏屈や奇矯に流れてしまう可能性の方が高いように思える。純粋であれ偏屈・奇矯であれ、実人生にはあまり役立たないことの方が多いような気がする。いずれも自信を生むものではない。
 根拠があろうがなかろうが、自信のある男に女は弱いのよね~~。(p.49)

 

 

【純潔主義の功罪】
齋藤 : なにか人間の身体に対する非常に浅薄な思い込みがあるような気がします。それは改めないといけないでしょう。白いカーペットが汚されていくということではなく、身体は経験の貯蔵庫のようなものであって、それが豊かになるのは祝福すべきことだと思えばいい。もし貯蔵庫が豊かであることを喜ぶ文化が、男のほうにできたら、世の中も活性化します。(p.85)
 この記述を読んで違和感が残るのは、知恵が浅い証拠だろうか。
 “身体は経験の貯蔵庫である“ という論理を延長して、さらに ”魂は前世からの経験の貯蔵庫である“ とするならば、前世で別の人とエッチしていたくせに、今世は純潔主義者っていうのは論理的に整合していない。おそらく今生きている時代・地域・文化という人それぞれにとって固有の偏向グラスである社会通念という意味付けを相対化できていないことによって、価値基軸のすり替えが起こっているのである。
 だとしても、これはあくまでも日常生活者用の一般論だから、修道士・修道女のような生き方を選びたがる人までを、すり替えに気づけていない愚者と言うことはできない。

 

 

【会話が絡まる相手】
齋藤 : 日本語をしゃべっているからと言って、日本語が 「使える」 わけではありません。長い文をきちんとした日本語で話せたり、抽象的な語彙のゾーンが使えるかどうかが、その人の日本語力の指標です。(p.122)
 まさに。
 しかし、最近は、凄い日本人がいる。
倉田 : それにしても、友人に聞いた話には驚きました。彼女が気に入っているホストと真剣な話をしていて、「そういうことは建設的に考えていかないと」 と助言したそうです。そうしたら、そのホストが 「いま真面目な話しているのに、なぜいきなり建物の話をするの」 ときょとんとしたのだそうです。(p.123)
 ホストの日本語力って、こんなもんなんだろう。
 ここまでひどくはなくとも、かなり一般常識的な内容の会話をおくっても、意味が咀嚼されて帰ってこないことがあると、本当に興醒めすることがある。
 平安時代の人々は、恋心を歌にのせて詠み、それに対して返歌で応えていた。歌に込められた教養で相手を取捨選択していたのである。教養主義の厭らしい貴族趣味と感じられないでもないけれど、あまりにも一般常識的な日本語力という程度の教養すらないと、やはり悲しすぎる。
 卓球やテニスも、上級者同士のラリーが楽しいのと同じように、会話にもハイレベルなやりとりの楽しさというのは確かにある。
齋藤 : 会話や恋愛もテニスの打ち合いと同じで、相手が上手ではない段階では、まず一定の返しやすいところに球を送り続けることが大事です。それがうまくできるように上達したら、次の段階として少しむずかしい球を送ってみればいい。というように、会話や関係を続けさせていくのが、文脈力なんです。(p.128)
   《参照》   『「頭がいい」とは、文脈力である。』  齋藤孝 (角川書店)
齋藤 : 会話がからまって楽しいと思う男とつきあえば間違いない。それはもう声を大にして言いたいですね。(p.206)

 

 

【 “だめんず・うぉ~か~” にならないために】
倉田 : 話は面白くないのに、性的な魅力がある人とつきあってしまったというのは、よくあるパターンでしょう。そのまま結婚までいってしまうと最悪。いわゆる会話のない夫婦になるわけですが、ダメ男のフェロモンに弱い、 “だめんず・うぉ~か~” もこのパターンに当てはまります。(p.208)
 異性の選択において、生理的・感覚的な判断に委ねるのが正しくないことは、下記の著作にも書かれている。
   《参照》   『こんな恋愛論もある』 深見東州 (たちばな出版)
             【いい結婚を摑む3条件】

 デートをするにしても、ボウリングだとか映画だとか何かしているよりも、お酒の力を借りずに、素面で喫茶店で会話してみた方がスンナリ相手を判断できる、と齋藤さんは書いている。喫茶店のコーヒー代なんて安いものだから、男選びに関してもっともコスト・パフォーマンスのいい優れた判断基準は、この書籍のタイトルがズバリそのものだそうである。 
 
 
<了>