《中編》  より

 

 

【神の地球への関与】
 著者が、人類の滅亡を防ぐ方法の教示を願った時の神の語り。
 それについては、ほかにいろんな本がある。たいていのひとは、無視しているがね。トム・ハートマンの 『古代の陽光の最期の時間』 を読んでごらん。あれには、さっきの質問の答えがすべて書いてある。あれには、あなたがたが地球という家庭をさまざまな方法で破壊していることも、破滅を止めるにはどうすればいいかも要領よく書いてある。(p.416)
 神は、この書籍以外にも、著述家や映画監督にインスピレーションを与えて、多くの作品を世に送り出していることが語られている。
 こういった啓発物だけではない。人類のここ100年間の技術の進歩は、それ以前に比べると格段の差がある。これを人間が独自に推し進めてきたと考えるのは、あまりにも傲慢すぎるだろう。

 

 

【進化した文明の第一指針】
 進化した文明の第一指針は、一体性ということだ。すべてが 「ひとつ」 であり、すべての生命は神聖であるという認識だ。だから、進化した社会では、どんな場合でも、同じ種に属する他者の生命を相手の意志に反して奪うことはありえない。(p.432)
 地球では、国益のためとあらば戦争の名において、他国の住民の意志に反して殺せば殺すほど英雄である。
 地球では、生を終わらせたいという本人の意思に則すると、自殺幇助罪が適応される。

 

 

【HEBと人間の違い】
 HEB(Highly Evolved Beings : 高度に進化した存在)
 HEBと人間の唯一のちがいは、「豊かさ」 の意味だ。HEBは 「利潤」 など必要とせず、すべてを自由に無料で分かち合い、それで 「豊か」 になったと感じる。その思いが利潤だ。(p.464)
 人類の “適者生存” という原則は、HEBの第一指針である “すべては一体で 「ひとつ」 である” という原則と相容れない。この原則の違いが 「豊かさ」 の意味の違いになっている。
 ここで見落としてはならないポイントは、HEBを構成する人々は、他者の心が自分の心と同じように感じられるテレパスとしての能力を、全員が等しく持っているということである。
 しかし、ここでは読者に概念の変容を迫るという目的で語っているのであろう。テレパシー能力のことは、全く別の個所(下記)で1回記述されているだけである。
 HEBは決して感情を隠さないし、隠すことが 「社会的に正しい」 とは思わない。
 いずれにしても、感情を隠すのは不可能だろう。HEBは他者から 「振動」 を受け取るから、感情は簡単に伝わる。HEBは他者の思考や経験を感じ取れるのだよ。(p.515)
 HEBへと進化する過程で伴うはずの人間の肉体的変化(超能力)の側面を語るエソテリック(密教的)な記述は、三部作全編を通じてごく僅かである。

 

 

【「善」 と 「悪」 と 「生命」】
 「善」 は対極がなければ、経験的に存在しない(できない)。したがって、あなたがたは悪も創造した。悪と善は逆の働き、反対方向だ。生命の対極でもある。そこで、あなたがたは死と呼ぶものを創りだした。
 究極の現実に死は存在しない。ただのつくりもの、工夫、想像上の経験だが、死をつくったことで生命がもっと大切になる。だから、「悪(evil)」 を逆に綴ると 「生命(live)」 になる! あなたがたの言葉は、じつにうまくできている。(p.469)
 善悪、上下、有無といった二項対立的な認識は、この本の中に繰り返し語られているけれど、分かり切ったことなので、ここで一度だけ書き出しておいた。
 ところで、日本人は本来、欧米人のように二項対立的に物事を捉えず、全体を一挙に感得するという能力を備えているはずである。 分別知の弊害にとらわれなかった日本文化は、 “すべては一体で 「ひとつ」 である” というかつて地上で栄えたHEBの文化の痕跡を少なからず残していた文化ということが言えるはずである。
   《参照》   『本当の愛とはなにか?』 深見東州 たちばな出版
            【智恵証覚に秀でた日本人】

 二項対立の概念を持たないHEBは、地球のような相対(二項対立)性の場をどのように活用しているかと言うと、
 HEBは、相対性の場のどこかにある 「自分ではないもの」 を観察すれば、ほんとうの自分に気づく。
 じつは、高度に進化した存在が対立要素を探そうとするとき、目を向ける場所のひとつが地球なのだよ。地球を見ることで、彼らはあなたがたと同じ経験を思い出し、自分たちのいまの経験を判断する目安にしている。
 これで、HEBの社会には 「悪」 も 「否定形」 も必要ないことがわかったな? (p.550)

 

 

【聖なる二分法】
 自分がプロセスの結果になるか、原因になるか。すべてにおいて、原因になりなさい(be cause)。
 子供たちは、このことをよく知っている。「どうしてそんなことをするの?」 と聞いてごらん。「だって、そうなんだもの(just because)」 と答えるだろう。何かをする理由はそれしかない。(p.558)
 子供たちは、神のあり方を無意識に実践している。
 あなたが経験する行為はあなたの存在から生じるのであって、行為があなたを存在に導くのではないということだ。
 あなたが最初に 「幸福」 であれば、幸福だから何かをすることになる。幸福になりたいから何かをするという古いパラダイムとは逆だ。
 あなたが最初に 「智慧」 であれば、賢いから何かをする。智慧を獲得しようと何かをするのではない。
 あなたが最初に 「愛」 であれば、愛だから何かをするのであって、愛を得たいから何かをするのではない。
  ・・・(中略)・・・ 。幸福に、賢明に、愛になりたくても ―― あるいは神になりたくても ―― 行為によって 「そこへ行き着く」 ことはできない。だが、「そこに行き着けば」、すばらしい行為をする、それは真実だ。
 ここに聖なる二分法がある。「そこへ行き着く」 道は 「そこにいる」 ことだ。行きたい場所にいなさい! (p.560-561)
 古いパラダイムに従っている人は、「幸せになれたら笑顔になれる」 と思っている。
 違うのである。「笑顔でいるから幸せになれる」 のである。
 「そこに行き着こう」 とすると結果になってしまう。
 「そこにいる」 ことで原因になれる。

 

 

【神との友情】
 愛する者よ、対話は決して終わらないし、終わらせる必要もない。あなたと神との対話は永遠に続く。すぐれた対話はすべて、いつかは友情を生みだすものだ。あなたと神との対話から、まもなく神との友情が生まれるだろう。(p.398)
 さりげなく予告されていたように、 『神との友情 (上・下)』 は既に刊行されている。

 

 

             <了>
 
 

  ニール・ドナルド・ウォルシュ著の読書記録

     『神とひとつになること』

     『神との友情 (上)』

     『神との友情 (下)』

     『神との対話 フォトブック』

     『神との対話』

     『神との対話 ②』

     『神との対話 ③』