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 『神との対話』 三部作の続編。 三部作の中で語られていることの繰り返しがなかりある。重要なポイントでもあるということなのだろう。
 会話の流れの中に汲み取るべきものがたくさんあるから、部分的に書き出しているチャンちゃんのブログを読んだだけでは、殆ど成長の糧にはならないだろう。

 

 

【続刊の予告】
 わたしたちがつねに対話していることがはっきりすれば、友情へと進むことができる。最終的には、一体感を体験するだろう。
 だから、あなたはあと二冊の本を書く。 
『神との友情 (下)』と 『神とひとつになること』 という本だ。(p.31)

 

 

【神との友情への7つのステップ】
 神との正しい関係を考えなおして、神に要求してもかまわないと思えるには、どうしたらいいんでしょう?
 かまわないだけでなく、それは良い結果を生む最善の方法なのだ。
 分かりました。で、どうしたらそうなれますか? どうすれば、そういう理解にたどり着けますか? (p.74)
 ということで、神は7つのステップを示している。
 ①神を知ること。 ②神を信じること。 ③神を愛すること。 ④神を抱きしめること。 ⑤神を利用すること。 ⑥神を助けること。 ⑦神に感謝すること。 この7つのステップは、誰と友達になるときでも使える。(p.75)
 神様に対する意識的な距離があると、なかなか本当のことが分からない。
 在来の宗教は、「神は身の内にあり」 と言いながら、教会を権威づけるために、神を権威的に利用してきたため、信徒は 「神を敬して遠ざける」 というような意識を醸成してしまっている。これでは 「神は身の内にありえない」 のである。
 このような既成の宗教観念を打ち破るために、以下のような会話が交わされている。
 問題は、あなたがたがどうしても私を擬人化したがることだ。わたしは 「ひと」 ではない。(p.79)
 このあと、親でもない、と言っている。
 あなたを親と考えてはいけないんなら、どう考えればいいんでしょうか?
 友だち。 (p.79-80)

 

 

【絶対というもの】
 あなたが相対的な世界 ―― 私が相対性の領域と呼ぶところだ ―― に入ったのは、絶対の領域では経験できないことを経験するためだ。あなたが体験したがっているのは真の自分だ。だが、絶対の領域では、真の自分を知っていても経験できない。魂の望みは体験して知ることだ。絶対の領域では、自分のどの面も体験できないのは、そこに自分ではない面がないからだ。
 絶対というのはそういうことだ。絶対なのだよ。あらゆるもののすべてだ。アルファでありオメガで、その間には何もない。「絶対」 には段階がない。ものごとに段階があるのは、相対性の中だけだ。(p.98)
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
            【「善」 と 「悪」 と 「生命」】

 当然のことながら、絶対の領域に ”名称” というものはない。
   《類似参照》   『ブとタのあいだ』  小泉吉宏  メディアファクトリー

 

 

【真の自分 : 見つけるのではなく創造するのだ】
 私たちは使命をもってここに来た・・・。
 そう、確かにそのとおり。魂の目的は、真の自分をはっきりさせ、宣言すること、存在し、表現すること、体験し、満たすことだ。
 その真の自分というのは?
 あなたが、「これがわたしだ」 と言う自分だよ! あなたの人生はあなたの宣言だ。
 あなたの選択があなたを決める。すべての行動は、自己を規定する行動だ。
 だから、さっきの簡単な問いかけ(「これがわたしか?」)が人生を変える。忘れずにその問いかけをすれば、ものごとが新しい大きな文脈で見えてくる。
 とくに、決断のときに問いかければ。
 「決断のとき」 でない時などない。 (p.110-111)
 「自分探し」 という視点自体が既にズレているというべきか、本末転倒と言うべきか。
 「これがわたしだ」 という宣言・決断から自分自身が創造される。探すのではない。
   《参照》   『神との対話 ②』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
              【創造とは、選択の連続】

 

 

【愛の消火剤】
 人間が作り出したライフスタイルでは、みんな 「ひとつ」 であると感じると、つねに 「トラブル」 が起こる。さっきあなたは、そのトラブルのおもな原因を口にしたね。この3つは、強力な愛の消火剤だといってもいい。
 ①必要性
 ②期待
 ③嫉妬
 この3つがあったら、真にひとを愛することはできない。このうちのひとつでももつと神を愛することはできないし、まして三つあったらとても無理だ。(p.190-191)
 期待については、類似的に
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
             【外からの承認】

 嫉妬については
   《参照》   『不思議の科学』 森田健 (同朋舎)
             【嫉妬は愛情のバロメーター?】

 必要性については、下記。

 

 

【愛なのか、必要性なのか】
 自分を愛していると言ってくれた相手が同時にほかの誰かを愛していても、それでも愛がなくならないなんてことがありえますか?
 
 ほかの誰かを愛していたら、あなたを愛していないことになるのかな? 真実の愛であるためには、あなただけを愛さなければならないのか? それがあなたの愛なのか?
 
 あたりまえじゃないですか! たいていのひとはそう言うだろうな。そう、あたりまえだ、って。
 
 みんなを平等に愛する神を受け入れにくいのも無理はないな。
 
 だって、わたしたちは神じゃないですよ。ほとんどのひとは、ある程度は感情的な安定が必要なんです。配偶者やパートナーがそれを与えてくれないと、好むと好まざるとにかかわらず、愛は死んでしまうんじゃないですか。
 
 いや、死んでしまうのは愛ではない。必要性だ。もう相手を必要としないと決意するだけだ。じつは、相手を必要としたくないのだ。それではつらすぎるから。だから決意する。もう、きみの愛は必要じゃない。どこへでも行って、誰でも愛すればいい。わたしはもうおりる、とね。
 そういうことだよ。必要性を殺すのだ。愛を殺すのではない。(p.209-210)

 むずかしいのは、ほとんどの人びとが愛と必要性を混同していることだ。この二つの言葉、二つの経験は同じもので、入れ替わりうると思っている。だが、そうではない。誰かを愛することと、そのひとを必要とすることとは、何の関係もない。(p.211)
 この記述に続いて、誠実さについて語られている p.213~214 にかけての会話には吹き出してしまう。この個所ばかりではなく、著者と神との会話を読んでいて、学びつつ笑ってしまう個所が結構たくさんある。そういった楽しさは 『神との対話②』 にも、特に 『神との対話③』 にはたくさんあった。

 

 

【一体化】
 内なる真の一体化を経験すれば、あなたが恐れているのとは反対のことが起こる。誰とも一緒にいたくないどころか、すべてのひとと一緒にいたくなるだろう。ただし、はじめて、いままでとはまったくちがった理由で、そう感じるはずだ。
 もう何かを得るためにひとと一緒にいたいとは思わない。それより、与えたいと切望する。自分の内側で体験したものを分かち合いたいと心から思う。一体化と言う経験を。あなたは誰とでも一体化を経験したいと思う。なぜなら、それこそがあなたという存在の真実だと知ったから。そして、その真実を経験の中で知りたいと願うから。
 あなたが 「危険」 になるのは、このときだ。誰とでも恋に落ちるであろうから。(p.241)
 真の一体化とは、全体との一体化であって、特定個人を対象とした範囲限定的な一体化なら本来の意味での一体化とは言わない。
 必要性に捉われないでいられるのは、全体と真に一体化しているからである。範囲限定的な一体化なら、全体との間隙部分に、愛の消火剤である必要性、期待、嫉妬を介入させる余地が残ってしまうのである。

 

 

 
<了>