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 『ブッタとシッタカブッタ』 などの著作を読んだことがあるけれど、「中高校生向けの本だなぁ」 と思いつつ閉じたことを覚えている。しかし、今どきの大学生は、こういう本で人生を学ぶのかもしれない。
 仏典の中の 「ナーガセーナの問い」 に語られている認識問題が、この書籍の元になっているのだろう。その上で 『法句経』 やらの “気づき” の詩句を、マンガや文字で説明している。

 

 

【わかったと思ったとき】
 わかったと思ったとき、見えなくなってしまうことがいっぱいあるってことを、人間は知った方がいい。そしたらみんな、謙虚になるのにね。(p.26)
 あるがままの世界には、そもそも名称などない。人は言葉を用いて名称を付けてわかろうとする。全体を損なう必然性がそこにはある。

 

 

【名前のコレクション】
 椅子の本質は椅子という名詞ではない。木やアルミでもない。椅子は椅子という概念。木の切り株も椅子と言われると椅子になる。椅子と言われると安心して座ることが出来る。僕の本質も名前にはない。男という名詞や人間という名詞で語られるものでもない。僕の名前は僕の存在を証明してくれる書類のようなもので、頼りになるし安心できる。
 僕たちは名前をコレクションして、概念を作り上げていく。僕たちは頭の中に名前を集めて、それに頼って生きている。(p.170)
 この記述の隣のページにあるのが、「名前は態度を決める?」 という上掲左のマンガである。
 だから、肩書きなど言葉の外衣に寄りかかる愚を知っている智者は、「世は “かりそめ” 」 という認識に到達しもするのだろうけれど、言葉の外衣に依存したがって世に執着する人々が少なくない。

 

 

【ものの見方】
 それはピカソの絵画のインスピレーションになった。遠近法の呪縛から解き放たれた絵画は、ピカソやマチスの手によってどんどん自由になっていく。20世紀芸術の歴史は、先人達が作り上げてきた芸術に対するものの見方から、いかに自由になるかの問いの歴史でもあった。(p.68-69)
 これは芸術の例だけど、その他の発想を大切にする学問にいそしんでいる人々は、ものの見方の呪縛(思い込み)という問題に当初から気付いているし、そもそもの課題にしていたりするから、それをそのまま心に当て嵌めて、人生を上手に生きている人々も多いのだろう。
   《参照》   『海馬 脳はつかれない』 糸井重里・池谷裕二 朝日出版社
            【いかに「思い込み」をまぬがれるかがポイント】

 

 

【そのまんまを生きる】
 人生にはただ、そのまんまがある。
 何かをしても、何もしなくても、人生にはただ、そのまんまがある。
 僕たちは、日々、刻々の体験を眺めるだけだ。そのまんまというのはそういうことだ。
 そのまんまを体全体で感じたとき、僕たちは本来の自分と人生が見えてくる。(p.182)
 人が世界を見る時、いかなる偏りもなく、そのまんま見ることは難しい。人は過去の経験に照らして見ることしかできないものだし、そもそも “分かる“ とは ”分けて比較すること” によって相対的に理解するものだから、遍く見ることはできず、偏って見ることしかできないのが人間(人偏)の定めなのである。故に悩みや苦しみは人生に付きまとうもの。
 悩みや苦しみと共に、あるがままを生き、できるだけ偏りを少なくしつつ、そのまんまを生きる。
 つまんない到達点であるけれど、これ以外に結論はないのである。
 

 

<了>

 

  小泉吉宏・著の読書記録

     『ブッタとシッタカブッタ2』

     『ブとタのあいだ』