古書店でみつけたので読んでみた。ブッタの語りを元にした著者のマンガは良くできているけれど、ちょっと表現を変えただけの似たような文章をいくつも読んでいると、次第に理解が深まってくることがある。ブッダの語りがそのまま記録されていると言われている初期の仏典(『ダンマパダ(法句経)』や『スッタニパータ(経集)』)は、みなそのような形式で記録されているのである。だから上掲写真に取り込んでおいた。
マンガを卒業して、これらの本を直接読んだ方が、ブッダの教えが深く心に浸透するはずである。右掲の『真理のことば感興のことば』には『ダンマパダ』が、左掲の『ブッダのことば』には『スッタニパータ』が集められている。
《参照》 『知の価値』 勝田祐輔 晃洋書房
《参照》 『知の価値』 勝田祐輔 晃洋書房
【宗教への思い】
【自分の価値を押しつけるブタ】
上掲写真にとりこんであるけれど、文字だけ読みやすく書き出すと、
ところが、日本が豊かになってからの世代の母親の多くは、このマンガのブタ親に似ているのである。
価値観を狂わせた大元は、豊かさを実現するための道具である「お金」である。人生の根本を見つめる「智慧」や「愛」よりも、「お金」という神を崇拝するようになったバカ親たちが、格差社会を推進するダイナモとなりつつ、同時に純粋な子どもたちの心を汚してきたのである。
だから、純粋な子どもたちであればあるほど、ひきこもりを選択する。ひきこもっている子どもに対して、親はいちいちブーブー言う資格はない。しかしブタはブーブー言う。ブタだから。
上掲写真にとりこんであるけれど、文字だけ読みやすく書き出すと、
「勉強しなさい! いっぱい勉強していい学校へ入って いい会社にはいるのよ!」
「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」 (p.44)
実質的に、日本の高度成長期を担ってきた人々は、近年退職しつつある「団塊の世代」と言われる人々で、彼らが子どもの時代は、戦後の焼け野原がまだ所々に残っているような貧しい時代だったはずだから、親はこんなこと考えていなかっただろうし、そもそも子どもたちが多すぎて、こんな手前勝手な親の価値観を押しつることなどできなかっただろう。「それからどうするの?」
「また、がんばって、エラくなるのよ」
「エラくなったら、どうなるの?」
「お金もちになったりして、シアワセになるのよ」
「シアワセって、そんなに先にいかなきゃないの?」 (p.44)
ところが、日本が豊かになってからの世代の母親の多くは、このマンガのブタ親に似ているのである。
価値観を狂わせた大元は、豊かさを実現するための道具である「お金」である。人生の根本を見つめる「智慧」や「愛」よりも、「お金」という神を崇拝するようになったバカ親たちが、格差社会を推進するダイナモとなりつつ、同時に純粋な子どもたちの心を汚してきたのである。
だから、純粋な子どもたちであればあるほど、ひきこもりを選択する。ひきこもっている子どもに対して、親はいちいちブーブー言う資格はない。しかしブタはブーブー言う。ブタだから。
【幸せ】
これも上掲写真にとりこんであるけれど・・・
《参照》 『あなたへ・・・そしてイヤサカ』 サトヴィックミカエルクラブ編 知玄社
これも上掲写真にとりこんであるけれど・・・
「夢がかなわなければ、幸せにはなれません。ブッタ様、ボクを幸せにしてください」
「まあ、茶でものみなさい」
ず~~~~~・・・ なんとなく幸せかも。 (p.85)
禅的な書物に触れたことのある人なら、このような解釈表現に慣れているだろう。「まあ、茶でものみなさい」
ず~~~~~・・・ なんとなく幸せかも。 (p.85)
《参照》 『あなたへ・・・そしてイヤサカ』 サトヴィックミカエルクラブ編 知玄社
【イヤサカ(弥栄)とは】
《参照》 日本文化講座 ⑥ 【 茶道 】【茶道はここから始まった】
【無常観】
日本文化に関しては、古い文献であればあるほど「観る」とか「観立て」いう表現が非常に多く出てくる。仏教でも禅宗系や密教系に触れた人は、さまざまな「観想法」を通じて「観る」ことの意味を知っているはずである。しかし現代人は「見る」や「視る」程度の認識に堕してしまっている人々が多いのだろう。
《参照》 『 時宗・狂言 “日本の心” を求めて 』 高橋克彦・和泉元彌 徳間書店
「無常」って虚しいことととらえるようになっちゃってるけど、
本来は前向きも後ろ向きもない。
「無常」とはただ「常ではない」という意味だけ。
つまりどんなものごとも「永遠ではない」ということ。
不幸なことも永遠ではないということ。
「むじょう」の「じょう」は「情」ではないし
「むじょうかん」の「かん」は「感」ではなく「観」。
ものごとを永遠ではなくただ移りゆくものとして観る。
ただただ観る。それが「無常観」。 (p.143)
日本人なら誰だって、中学生のとき『平家物語』の有名な冒頭の記述を通じて「無常観」を習っている。しかし、中学生の年代で「無常観」をシックリと認識できる子どもなんて、もしかしたらいないんじゃないだろうか。チャンちゃんは古典になんて全然興味がなかったから、コッパズカシイことだけれど、“「無常観」って「レ・ミゼラブル」じゃなかったのだ“と、気づいたのは大学生になってからだった。(ドヒャ!)本来は前向きも後ろ向きもない。
「無常」とはただ「常ではない」という意味だけ。
つまりどんなものごとも「永遠ではない」ということ。
不幸なことも永遠ではないということ。
「むじょう」の「じょう」は「情」ではないし
「むじょうかん」の「かん」は「感」ではなく「観」。
ものごとを永遠ではなくただ移りゆくものとして観る。
ただただ観る。それが「無常観」。 (p.143)
日本文化に関しては、古い文献であればあるほど「観る」とか「観立て」いう表現が非常に多く出てくる。仏教でも禅宗系や密教系に触れた人は、さまざまな「観想法」を通じて「観る」ことの意味を知っているはずである。しかし現代人は「見る」や「視る」程度の認識に堕してしまっている人々が多いのだろう。
《参照》 『 時宗・狂言 “日本の心” を求めて 』 高橋克彦・和泉元彌 徳間書店
【観立て(みたて)】 【摩訶止観】
《参照》 『目力の鍛え方』 中谷彰宏 (ソーテック社)【見る】
《参照》 『何が映画か』 黒澤明・宮崎駿 (徳間書店)【見る】
<了>