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 『神との対話』、 『神との友情』 に次ぐこの著作を、同様に直訳すれば 『神との親交』 だけれど、意訳してこのようなタイトルになっている。最終的なゴール地点を示したタイトルだから、このタイトルの方が相応しいだろう。2001年5月初版。

 

 

【10の幻想】
 最初の3つの幻想 ―― 必要性、失敗、分裂 ―― がいちばん重要だ。この3つが残りの幻想を支える重要な鍵だから、この幻想を説明しようとして、それも何度も、はっきりと説明しようとして、さまざまな文化的な物語がつくられた。(p.47)
 最初の3つの幻想が幻想だと気づけば、誰でも、あらゆる生命はひとつであることを否定しなくなり、地上のあらゆる生命を破壊しようとしなくなるだろう。(p.53)
 第4から第10までの幻想は、不足、課題、裁き、罪の宣告、条件、優越、無知。
 あなた方の文化的な物語は、たいへん説得力があった。この本ではだいたい、西欧文化の物語について語っている。そこでこのコミュニケーションが始まったからだ。だが東洋にも、ほかの多様な伝統のすべてにも似たような物語があるし、ほとんどはこの10の幻想のどれか、あるいはすべてにもとづいている。(p.88-89)
 西洋においては、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教こそが、『神とひとつになること』を妨げる文化的な物語の根源だったのである。
 日本人にも、明治維新以後の脱亜入欧路線によって、西洋思想が色濃く覆いかぶさっている故に、脱洗脳剤としてこのシリーズは重要。

 

 

【第3の幻想:分裂】
 現在の地上のほとんどのひとたちが、分裂の幻想を真実だと思い込んでいる。だから、ひとは神から離れ、お互いに離ればなれなのだと感じている。
 わたしから離れていると感じているから、わたしとの意味あるふれあいが、非常に困難になる。
 だからわたしを誤解し、恐れ、助けを乞う。あるいは頭からわたしを否定する。(p.50)
 魚座時代の2000年期は、占星術において、「分裂」という言葉で象徴されている。ゆえに本当は、文化的物語が人類に「分裂」を定着させたのではなく、宇宙史的な波動サイクルによって、「分裂を基調とする文化的物語」が人類に与えられたと言ったほうが正しいだろう。
 これからの2000年期である水瓶座時代は、「分裂」から一転して「融合」を基調とする。現在は、この2つの時代の遷移期間にあるがゆえに、このような著作によって人類の意識変革が誘導されているのだろう。

 

 

【第8の幻想:条件】
 条件つきの愛というのは、言葉の使い方自体が矛盾している。
 わかるだろうか? 理解できるだろうか? この2つは両立しない。条件という経験と愛という経験は、同時に同じ場所にありえない。(p.90)
 人間は、神の愛は「無償(無条件)の愛」であると言いながら、人間の愛は「条件つきの愛」であると普通に考えてしまっている。
 愛はただ存在する。条件はない。
 だのに「必要性」という第1の幻想の枷に嵌っている人間は、「条件つき愛」という幻想を不可避的に受け入れて生きることになる。
 「条件」と「愛」が同時に同じ場所にあり得ないのと同じように、「必要性」と「愛」は同時に同じ場所に存在しない。
   《参照》   『神との友情 (下)』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版)
             【愛は手放す】

 

 

【第10の幻想:無知】
 ひとつずつ幻想が積み重なっていくと、人生(life:生命)はますますわかりにくくなった。
 ・・・(中略)・・・ 。
 まもなく、哲学者も教師たちも音をあげた。「わからない」と彼らは言った。「わかることが可能かどうかもわからない」
 こうして無知という考え方が生まれた。
 この考え方はいろいろな目的に役だったから、たちまちひろがって、究極の回答になった。
 ―― わたしたちにはわからないのだ、と。
 人間は直感的にはこれが唯一の逃げ道であるばかりか、ある種の力を持っていることに気づいた。「わからない」は「わかるはずがない」に変わり、つぎには「わかる必要がない」に、最後には「わからなくても傷つきはしない」に変わった。
 これで宗教も政府も好きなことを言い、好きなようにふるまい、誰にも答えなくてすむようになった。
 それどころか、「わかるはずがない」は宗教的な教義になった。宇宙には秘密があり、神はそれをわたしたちが知ることを望まない。そう教義は宣言し、その秘密を探ることすら冒涜だと言った。この教義はたちまち宗教から政治へ、さらに政府へとひろがった。
 その結果 ―― あなた方の歴史は、あるときにあるやり方である質問をするだけで首をはねられた時代があった。
 文字どおり、首をはねられたのだ。(p.103-104)
 宗教的には、問いをはねつけたり首をはねたりしたけれど、哲学的には、「不可知論」という括りでケリをつけたのである。
 「神とひとつである」という認識を欠いた世界では、不可避的に「無知」の領域が出現してしまう。ロゴスでどう窮めようとしても、認識の前提に幻想(誤り)があるのだから結果はただただ空しいだけである。

 

 

【「決着なきプロセス」と「時間というものの性格」】
 神とは「決まりがついた」プロセスあるいは存在だと思っているなら、あなたは真実を正しく思い出していない。偉大な秘密を教えよう。神に決着はない。
 すべてについて同じことが言える。あなたがたもふくめて。
 神はあなたがたについても、決まりをつけることはない。
 あなたがた、それは神だから。神は神について決まりをつけたりしないから、あなたがたについても決まりをつけることはありえない。
 これが神聖なる二分法である。かつてあったもの、いまあるもの、そしてこれから存在するものはすべて、いまここにある、とわたしは言った。さらに、進化というプロセスは永遠に続いて、終わることがないとも言った。どちらも真実だということがありうるか?
 答えは、時間というものの性格をあなたがたがどう理解するかにある。じつは時間などというものはなく、単に永遠に終わらない「いま」という一瞬が続くプロセスがあるだけだ。
 神はプロセスである。(p.115-116)
 「裁きの神」という幻想に囚われている西洋人の多くは、「神とは、決着なきプロセス」であるというこの記述が飲み込めないのだろう。日本人でもキリスト教的ないし仏教的なカチンコチンの石頭なら、チンプンカンプンかもしれない。
 日本語には「ただいま」という言葉があるように、神国日本の民は古来から、「いま」という一瞬が続くプロセスの重要性を知っていた。いまをどう生きるかで、未来も過去も時々刻々に変容している。
   《参照》   『禅、シンプル片づけ術』 枡野俊明 (河出書房新社)
             【「玄関」で「ただいま」】
   《参照》   『未来を拓く君たちへ』 田坂広志 (KUMON)
             【「生きる」 から 「生き切る」 へ】

 「じつは時間などというものはなく」とあるけれど、これに関して、「では何故、人間は時間を幻想だと思えないのだろうか」と思うなら、以下のような説明も可能である。
   《参照》   『宇宙パラレルワールドの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド) 《中編》
             【未来の支配者(その1)】~【未来の支配者(その2)】

 

 

【神と人間は一体である】
 彼らは、あなたは「わたし」ではなく、わたしはあなたがたではないと言い聞かせ、そう考えることは罪であるとまで言った。
 わたしたちはひとつではない、と彼らは言う。そうではなく創造者と被造物だ、と。
 だが、わたしとあなたがたが一体であることを知って受け入れようとしないから、人生のあらゆる苦痛、あらゆる悲しみが生まれる。
 さあ、創造者と出会いなさい。
 あなたがたは自分自身のなかに創造者を見出すだろう。 (p.139-140)
 苦難に満ちた人生を克服する唯一の方法は、「私は創造者」であり、「私は神と一体」であるという認識の上に立って「決着なきプロセス」を生きる覚悟をもつこと。確信を持って。