イメージ 1

 「禅=清掃」と考えてもいい。この本を手にする動機が何であれ、両者の深い繋がりから、日本人としての生き方を確認できるだろう。2011年5月初版。

 

 

【禅寺の説法】
 修行僧のいる禅寺では、朝に夕に徹底的に清掃を行います。
 境内を隅々まで掃き清め、本堂を丁寧に拭き上げます。
 汚れたから清掃するのではありません。「自分の心を磨くため」に清掃をしているのです。
 ・・・(中略)・・・ 
 禅寺を訪れただけで心地よく感じ、気持ちが引き締まるということは、言葉ではなく、「空間そのもの」が説法をしているのです。(p.14)
   《参照》   『志のみ持参』  上甲晃  (致知出版)

             【場のエネルギーを高めるのが、清掃の原意ではないのか】

 

 

【靴を脱ぐ】
 なぜ日本の家では玄関で靴を脱ぐか、ご存知でしょうか?
 もちろん、泥やほこりなどを家の中に持ち込まないためですが、実はもっと深い意味があります。
 古くは、靴を表す漢字に「沓」という字が当てられていました。
 「沓」の訓読みは「けがれ」と言います。つまり、玄関で靴(沓)を脱ぐという行為は、外出先でつけてきた穢れをそこで止めて、家の中に入れないという大切な意味があるのです。(p.18)
 「沓」の訓読みが「けがれ」だったとは、ついぞ知らなかった。

 

 

【「玄関」で「ただいま」】
 「玄関」という言葉は、禅寺から生まれた言葉です。
 もともと禅僧の居室である「方丈(ほうじょう)」の入り口で、「玄妙に入る関(かん)」と言い、禅の修行に入るための関門を表していました。 ・・・(中略)・・・ 
 本来、玄関は玄妙なる修行の空間に入るための入口。襟を正して入らなければなりません。
 家の中で一番と言っていいほど、常にきれいに整え、清掃しておくべき場所です。(p.90)
 現代人にとって家は「くつろぎの空間」かもしれないけど、雲水(修行僧)にとって寺は「玄妙なる修行の空間」。ちょっと前までの日本人の生活の中には、日々を雲水のように、自らを律しつつ生きようとする精神が普通にあった。しかし、そんな精神が希薄化するにつれて、「ただいま」の意味すら分からない人々が多くなってきたんだろう。本来の日本人の生き方のエッセンスこそが「ただいま」である。
   《参照》   『どこまでも強運』  深見東州  たちばな出版

             【神道の風土】

 

 

【雲水たちの首座】
 上山して半年もすると、雲水たちの表情はキリッとひきしまったものに変わってきます。 ・・・(中略)・・・ 。
 とりわけ、首座(しゅそ)と呼ばれる雲水のリーダーになった者の変化には著しいものがあります。
 ・・・(中略)・・・ 他の雲水たちの手本にならなければなりません。
 そこで、普通よりも1時間早く起きてひとりで東司(とうす:トイレ)の清掃をするなど、人の嫌がる仕事を率先して行います。修行の先頭に立って皆を引っ張るのです。
 もちろん、汚れているから清掃をするわけではありません。心を磨くために、自主的に清掃をする。一点の曇りもないほど、ピカピカに磨き上げる。リーダーになる者は、皆、当たり前のことを当たり前に行っているだけです。(p.60-61)

 

 

【手放す】
 自分の生活を変えたいと思うことは、誰にでもあります。そんな時、私たちはこのように考えがちです。「もっと○○すれば、よくなる」「新しい○○があれば、幸せになれる」。
 今とは違う別のやり方、ライフスタイルを手に入れれば、今よりも幸福になれると思う傾向があります。
 しかし禅では、新しい何かを得るのではなく、不要なものを手放し捨てていくことこそ、幸せへの道だと考えます。(p.142)

 禅において “断捨離” は基本であると言っている。

 

 

【清掃開始】
 はじめに、今持っている物をすべて見直し、必要なものとそうでない物に分けていきます。そして、処分する物は処分し、残す物はしかるべきところに収めていきます。また、汚れている場所のほこりを払い、きれいに磨き上げます。
 この作業をすべての場所で行うのですから、一日中取り組んだとしても、数日はかかるでしょう。週末にのみ行うのであれば、数週間かかるかもしれません。ライフスタイルに合わせて、自分に合った計画を立ててみましょう。
 肝心なのは、途中で止めてしまわないこと。そして、必ず自分の手で行うことです。(p.64-65)

 

 

 《関連参照》   『佐藤可士和の超整理術』 佐藤可士和 (日本経済新聞社)

             『決断力』 羽生善治 (角川)

               【整理整頓】

 

 

<了>