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 「おすすめの本あります?」 とお嬢さん(?)に尋ねたらこの本をくれた。著者の主要な5冊は15年ほど前にすべて読み終わっているので真新しい学びというのはないけれど、仮に同じ本であっても十数年も時が経過していれば、忘れてかけていた個所もあり、以前は気付けなかった個所に気付けもする。
 この書籍は2002年9月初版。初めて読む人にとっては、学びの多い本のはずである。

 

 

【神道的宗教観とオールマイティー】
 神道的宗教観には、このほかに 「ドグマがない」 という特徴がある。・・・中略・・・。だから神道はいろんな宗教と結びつくことができる。仏教と融合したり、儒教と融合したり・・・・。ごたまぜ感覚のゆえに、神道ってよくわからないと思われているところがある。しかし、いろんなものと融合して、いいところを集めていくという要素が神道にはもともとあって、それが神道のいいところなのだ。
 私もそんな生き方を心がけている。いろんな要素を吸収しながら、いいところを集めて独創的なものを生み出していく。これが実は、オールマイティーの道への基礎でもある。(p.16-17)
 神道的宗教観が日本という国家に最も顕著に表れている一例として、図書の出版状況を挙げることができる。日本ほど国内外を問わず多様な図書が出版されている国はない。日本に生きている日本人は、誰でもオールマイティーをめざせる図書環境にある。
 オールマイティー文化という言葉はないけれど、日本にはニッチな領域の文化もあれば、オタクのような偏向ぎみの若者が主力となって生み出されたマンガなどの文化があり、これらはドグマ的な規範を内包せぬがゆえに世界の人々に受け入れられ広まっている。
 生まれてこのかた二・三十年の若年者達は人生の研鑽期間が長くはないのだから、彼らにオールマイティーな文化を期待しても無理がある。オタク文化の創出というだけで十分、日本文化の世界伝播に大いに貢献してくれている。しかしながら、世界の大人が認めるようなオールマイティーな日本文化人を探すならば、国内外の芸術を会得している著者のような神道的宗教観を体現した人なのだろう。

 

 

【オールマイティーへの道】
第1条、 プライドを捨てる。
第2条、 中途半端は素晴らしい。
第3条、 途中でやめない。
第4条、 良き師につく。
補足    むなしさとの闘い

 と章立てて、60ページほど費やして記述されている。
 「逆なんじゃないの?」 と思える第1条と第2条は、私たち凡人を勇気づけてくれる。
   《参照》   『魔法の時間を作る50のヒント』  中谷彰宏  三笠書房
            【完璧主義の弊害】

 

 

【神道の人生観】
「生成化育、進歩発展すること、それ自体が尊い」
 これが神道の人生観だ。だから、一生懸命やって、昨日よりも今日、少し賢くなったらいいのである。今日よりも明日、何か一つ勉強になって、賢くなったらいい。一日少しずつでも進歩したら、そのことで十分すぎるほど意義ある人生だ。(p.55)
  《参照》  『人類が生まれた秘密をあかす』 深見東州  たちばな出版
           【人類誕生の理由】

 

 

【読書は自分の考えをつくるヒント】
 読書は自分独自なものの考え方、個性的な考え方、自分の主張、自分なりの見解をつくっていくためのヒントでしかない。どんなに本を読解できても、自分の考え方ができなければ意味はないわけだ。
   《参照》   『日本人をやめる方法』 杉本良夫 ほんの木
            【書評をやってもらうこともある】

 自分の考え方ができるようになるまでには、少なからぬインプットが必要である。
 本を読み始めて数年間は、誰だって受け売り程度しかできないものだけれど、この期間は、読むもの全てが真新しいことだらけの新鮮さで、私にとっては、読書が一番楽しかった時期でもある。
 本が読めないというのは、忙しいからではなくて、その人の頭が暇だからと考えてよい。(p.100)
 言えてる。時間たっぷりの暇な日々が続いているからと言って、たくさん読書できるかと言えば、実際は逆である。脳は回転力が落ちるとサボリ癖がつく。

 

 

【日本が世界をリードする】
 著者が、アメリカの神霊家のリアさんに語ったこと。
 日本の先端技術が世界をリードするように、神霊界でも日本の技術が世界をリードしているんだ。(p.145)
 著者が “神霊界の日本の技術“ を使って行った秘儀の一端が、下記の写真の雲に顕れている。
      《参照》  函館山近海のミステリー


【神道の風土】
 日本の神道の風土は、「中今」 の思想であり、今の中にある、只今只今を一生懸命生きていくということを重視する。未来のことをあまり考え過ぎない。過去のこともくよくよ思わないという、この中今の思想というのが中心にある。日本に入ってきた宗教をつぶさに見ると、禅宗も老荘思想も同様の精神が流れていることがわかる。だから、この国に根ざしたのである。(p.147)
   《参照》   一般の日本人は、韓国人をどう考えているか。(日本文化を背景に)
          ●宗教的な視点から (その2 : 『ただいま』 を キーワードとして )
   《参照》  “中今” に関する引用一覧

 

 

【宗教的世界観の融合】
 もとの質問、「世界に普遍的な世界観が存在する以上、信じる宗教によって異なる世界観をどう融合するんでしょうか」 にもどると、
 結論から言えば、何も世界観を融合させる必要などない。私が今まで述べてきたように、少しずつ理解し合う努力は続けるものの、要は愛を素直に実行すればよいのである。そこは万人が理解し合える、世界共通の宗教観の最高峰であり、あらゆる世界観の結論であるからだ。(p.159-160)
 固有の宗教的世界観であるドグマを以て信者を結束させるような仏教系宗教団体は、ドデカイ伽藍堂の建設に何百億も費やし、返済の金利分だけでも年間数億円を必要とする。信者から集めた浄財と称する金銭はブラックホールのようにそこに吸引され、世界中の困窮し欠乏している人々に愛を施すことなど、まったくできない財政状況になっている。
 教団は自らの大伽藍を建立しても福田は建立しないのだから、信者は分福の恩恵にすら与ることはできない。教団自体が、世界観の結論である “愛の法則” に外れている。そんなエゴに満ちた教祖と教団は、広告代理店に企画させた独善的イベントで愛を偽装して実践するのみである。盲目的信者は愛の本質を永遠に理解しない。

 

 

【芸術と禅と神道】
 禅の真髄は、経典やドグマにとらわれず、自分で真理、仏性を見出せ、というところにある。一方、芸術の世界も、高い次元に達すれば同じような境地になる。
 文字や言葉ではないがゆえに、剣禅一如、茶禅一味、俳禅一味の世界が生まれる。剣と禅は一の如し。そして、この禅が日本文化に深く根差しているのは、日本人の血脈ともいえる神道が、この思想と趣を一にしているからである。(p.180)
 禅宗は無形の世界を伝えるのに、一番よく体系づけられているといえる。 (p.183)

 観念をぶち破って神の世界に入っていくプロセスと、そのプロセスを超えた上の最高の神界を体得する世界があるが、そこへ入るための、禅は導入として私は扱っている。禅はいわば、そこにいたる基礎となるステップだといっていいだろう。そのように位置づけて、私は禅宗の勉強をすすめているのである。(p.184)
 167頁から最後の230頁にかけての第5章には、日本の禅宗と、そのルーツとなったインド禅、中国禅の祖が順繰りに、そしてそれぞれの奥深いポイントが簡略に記述されている。

 

 

【六祖慧能禅師】
 入門してわずか8か月で、しかも無学文盲だった慧能が、五祖弘忍から衣鉢を継いでいる。(p.197)
 衣鉢を継げなかった神秀禅師は 「漸悟」 を宗とする北伝の禅宗となり、慧能禅師は 「頓悟」 を宗とする南伝の禅宗となった。今日残っているのは慧能禅師の流れだけである。(p.202)
 197ページの4行目、「慧能禅師」 の 「慧」 の字が脱落している。この本は平成14年10月の第2刷であるけれど、最新の刷では修正されているのだろうか。脱字という誤植は珍しい。

 

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【光孝寺】
 数年前、香港に飽きて電車で広州に行ったことがある。ガイドブックに 「中国華南最古の仏教寺院で、完成は401年。歴史的にも重要な寺で、多くのインドの名僧が布教に訪れた」 と記述されていたお寺にふらりと行ってみた。そして、入口で買ったピャオ(票=入場券)を見て、驚いたものである。その光孝寺は、なんと中国禅宗の大成者である禅宗第六祖・慧能禅師のお寺だったのである。慧能禅師の語録である 『六祖壇教』 の文字が脳裏をよぎり、急に改まった心で参拝したものである。
 脇の建物の中には、金ピカで半眼瞑想中の仏像があった。この仏像の顔はタイの古都・スコータイ遺跡のワット・シーチュムにあった微笑みの仏像の顔にとてもよく似ていて、とても可愛いというか、噴き出してしまいそうに面白い顔をしている。タイと中国・江南の広州、それほど遠くないのだから相互に影響し合っていたとしても不思議はない。

 

 

【霊層、霊格日本一 ――― 白隠】
 一番霊層が高くて、一番霊格が高い、日本ナンバーワンのお坊さんは誰ですかと、私が神様に聞いて神霊界のランクを見せていただいたら、白隠禅師だったのである。弘法大師よりも上だから、私も驚いたが、大変な高さだ。・・・中略・・・。これは曹洞宗開祖の道元禅師よりも、霊界では5ランクも上といえる。・・・中略・・・。
 白隠禅師は臨済宗中興の祖といわれ、・・・中略・・・。白隠禅師は、実は臨済禅師の生まれ変わりなのである。(p.169)
 なぜ、道元さんはランクが低いかというと・・・、

 

 

【道元の悟り】
 求道し、座禅することが仏性であり、仏性の顕現であるというのは大変偏った悟りである。それは真諦の陰の部分であり、真諦の陽の部分である慈悲の実践を見落としているのだ。悟りを開けば、真諦の求道と、慈悲行の実践が、おのずから本然としてわき出てくるのが本当である。求道と慈悲行は一体不二のものである。その両方を体現していなければ、本物の悟りを得たとはいえない。そこが、私が道元の悟りはまだ浅いと断ずる理由である。(p.214)
 道元禅師はあまりにも自分の道と真実のみを求め過ぎたために、「真実を求めるんだ」 という行者になってしまった。正に学僧であって、前述した如く、仏者たる慈悲の発露が見出せないのである。(p.217)
 著者は、道元の 「影」 の部分のみならず 「光」 の部分にも少なからぬ頁を割いてキチンと記述している。
 いろいろ学べることの多い本である。

 

 

<了>