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 渡部先生は、英語学において世界屈指の権威なのですが、日本史と日本文化を総合する日本学の第一人者でもあると、私は思っています。
 先生は、敗戦直後、国学はアンタッチャブルな思想とみなされていた時期に、上智大学生として 『古事記』 の精読ができたというような、類稀なる環境に恵まれていたそうです。国内や国外の古典文献などを自在に引用しながら、世界の人々に説明する視点で、分りやすく明確な日本の見方を教えてくれます。


【日本学の “前書き” であり “まとめ” でもある】
 かつて、どれほど、渡部先生の著作から日本について学んだことか。ところが、この書籍、30年近く前に出した本の復刻版だそうです。私が読んだことのある渡部先生の著作内容の萌芽の大半は、この本の中に既に書かれていました。しかも、平明に書かれているので、復習も兼ねてスラスラと理解できました。


【英語に主語は不可欠か?】
 英語に主語は不可欠である、と考えるのは誤りだそうです。
 英語にしろ小部族で用いられていた時は、主語など必要がなかったが、英語圏が拡大するに及んで主語が必要になった (p.65)

 ということだそうです。
 言葉の流通範囲が、習慣的に通用する血族的範囲か、形式的に通用させねばならない複合民族的範囲か、が主語の有無を発生させる基準であると考えることができます。主語なしを可能にしている日本語の特徴は、外国人の流入がそれほどなかった日本という地理的特長に起因する結果論であって、本質的な日本語の固有性を定める因子ではないということです。


【日本語の本質的な固有性は訓読みで保たれている】
 大陸から漢字と共に音読みが流入しても、訓読み(大和言葉)は決して消えないどころか、その後も、和歌の世界では訓読みしか用いられなかった、と言うことは、日本語(日本)の固有性として揺ぎ無いポイントです。
 訓読みは、神とのコミュニケーション・ツールとしての言霊に深く関与しています。


【西欧における、 知性万能主義 VS 経験主義 】
 前者の代表がフランスのアンリ・ルソーで、後者がイギリスのデビット・ヒュームです。
 学問的に受け入れやすい知性万能主義をとったフランスは、革命を正当化したため国内で多量の流血を招きました。一方、現実において既存の習慣に照らし合わせて政策の見直しを繰り返したイギリスは西欧で最も繁栄したという歴史的な事実があります。しかし、イギリスも、しだいに知性万能主義に侵されるに及んで徐々に衰退してゆきました。
 マルクスもフリードマンも対極的な思想を語りながら、実はいずれも知性万能主義の土壌から生み出された思想を世界に振り撒いていただけなのです。

 近代日本は、これら両極の思想に揺さぶりをかけられつつも、本質的な受け入れは拒み続けています。


【日本における、 形式主義  VS  習慣主義】
 日本の歴史を見るならば、中国から律令制を取り入れながらも、それは形式としての採用のみで、国内文化に基づく習慣法はそのまま残っている状態が続いていた、と言えます。
 このような日本の習慣法は、律令制を定めながらも、実用的に別途存在していた鎌倉時代の武家の根本法である貞永式目に見ることができます。また、明治憲法を定めながら、教育勅語が並存していたことにも見られます。
 このような日本のあり方、つまり、知性に基づく形式を定めるという建前とは別に、経験に基づく習慣を尊重する本音が並存するあり方は、日本の安定装置として機能していたわけです。


【日本文化の強さの現れ方】
 平和と安定を基本とする日本は、消化吸収できるものはすべからく日本文化の中に取り込んでしまい、消化吸収しがたいものは建前(形式)として用い、本音(習慣)と並存させます。これが日本文化の強さの現われなのです。

   《参照》   日本文化講座 ① 【 七福神 】

             ■■■ 結語 ■■■

             □□□ 例外 □□□

   《参照》   『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》
              【日本神霊界】

 

 

【人材に見る、歴史の法則】
 人材の登用基準について、才能(能力主義)か否か日本人経営者の悩む処のようです。
 日本の歴史を見ると、戦国時代には、特異な才能を持つ織田信長のような人物が現れ、混乱が収まると、徳川家康のように、才能を無視した幼長の序のような長期安定的制度を定める人物が現れます。
 日本人の気質にあっては、織田信長は建前で徳川家康が本音といえるでしょう。現在の日本は、世界的な大競争の渦中にあるので、不本意ながらも、建前の人材論(能力主義)を推進せざるを得ない時代にあると言えます。


【日本語に見る、歴史の法則】
 日本語において「音読み」と「訓読み(大和言葉)」が並存していますが、歴史に関わって使い分けがあります。
 内省的・情緒的な「訓読み」は平和な時代の日本に適しています。

 しかし、日本が危機の時代、即ち戦争の時代には、外交的・意思的な「音読み」の軍歌となって前面に出てきます。
 日本語にあっては、「訓読み」が本音、「音読み」は建前と言えるでしょう。


【習慣法の核は、先祖崇拝。これは日本文化の主軸である】
 日本人の本音である習慣法の核は何かというと、先祖崇拝だそうです。今日的な葬式仏教の習慣から短絡的に、先祖崇拝を仏教文化の賜物と思っているなら論外です。
 先祖崇拝は仏教渡来以前の日本文化です。「自然は神なり」を基本とする日本人は、『古事記』 に書かれているように、国生みの神々がそのまま日本人の祖先として繋がっているのです。故に先祖崇拝は、天皇を敬うことにも、国を尊ぶことにも繋がります。これが、日本文化=神道の根本的なあり方としての主軸となっているのです。
 この縦に連なる万世一系を主軸とする神道を縦糸に、海外から流入した仏教・儒教などを横糸にして、日本は奥深い秘めやかな融合文化を形成してきているのです。


【世界も日本と同じであった】
 先祖崇拝は日本だけにあったのではありません。キリスト教以前のヨーロッパ、仏教以前のアジアにおいても、先祖崇拝は同様に存在していたのです。先祖崇拝に連なる巨木信仰、大地母神信仰は世界各地にあったのです。


【キリストと仏陀は、双魚期(魚座)の象徴である】
 2匹の魚が互いの尾ひれを一本の紐で縛られた絵に象徴される双魚期は、キリストと仏陀によって演出された2千年期でした。精神と物質が、宗教と科学が対立したままの時代でした。輪廻転生は真実でありながらも、双魚期の意匠として封印されていたのです。
 巨木を切り倒すことでキリスト教はヨーロッパに広がって行きました。ヨーロッパにおいて、キリスト以前の文化は消えたかのように見えますが、そんなことはありません。クリスマスはキリストの誕生日を祝って定められた、と言うのは違うそうです。キリスト以前の習慣にキリスト教が同化したのだそうです。
 日本では仏教以前の神道は消えていません。仏教は日本化して取り込まれていたのです。横糸として仏教を取り込みつつも、双魚期以前の習慣法の核である神道が、これほどまでに確たる様式と儀礼を継承されつつ保たれてきた国は、世界広しと言えども唯一日本だけです。これは、特筆すべき稀有なる日本の財産なのですが、着目する人々はまだまだ限られています。(意図的に封印されてきたからでもあるのですが・・・)


【宝瓶期(水瓶座)の世界と日本】
 キリスト教のルーツとなるユダヤ教の人々は、神と人間は契約の関係にあるとしながらも、先祖崇拝の思いは強く持っていることに注意しなければなりません。双魚期以前の時代、即ち古代エジプト、カルナック神殿に並ぶ牡羊像に象徴される牡羊期に存在していた神秘主義が根底にあるからなのでしょうか。
 現在は双魚期を終えて、宝瓶期(アクエリアン・エイジ)に移行しつつある時代です。
 キリスト教も仏教も、水瓶座の意匠を読み解けず、日本文化の根底すらも読み解けない人々の手によって保たれるのであるならば、その使命(役割)は既に終わっていることになります。

 

<了>