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 この書籍は、カネボウ化粧品とスタッフの皆さんと取り組んだ研究課題からできたものらしい。

 

 

【化粧する脳】
 私たちは自分には 「確固とした自己」 があると思いがちである。
 しかし、実際には他者との関係性において自己の有り様は大きく左右されている。他者との関係性が変わるたびに、ある <ふり> からもう一つの <ふり> へと切り替わり、そこに新しい自分も生まれている。
 こうした <ふり> は 「脳の化粧」 と考えることもできる。
 他者との関係性を前提に自己に変化がもたらされるのであれば、他者の視線を意識して顔にほどこす化粧と現象はきわめて近い。人間のパーソナリティーはかくも多面的で柔軟性があるものなのだ。つまり、脳は絶えず 「化粧」 をし続けている。(p.32)
 上記の 「脳の化粧」 は 「適応」 という単語にほぼ置き換えることができるだろう。外部とパーソナリティーをマッチさせるための <ふり> とは 「適応」 である。
 例えば、生物の場合の “擬態” や “保護色” は、それらをなす生物にとって、外部への適応である。
 脳科学というか科学自体が既に舶来の知の枠組みだからなのであろうけれど、適応という言葉を使って、 “外部に適応する“ と表現してしまうと、それ自体が既に欧米文化的になってしまう。適応するためにプリテンダー(ふりをする者)に有意な価値を見いだせば、やがてプレイヤー(演ずる者)はさらに高く評価される。日常で演ずることは欧米文化の基礎的要素ですらある。
   《参照》   『英語の発想法 日本語の発想法』  秋澤公二  ごま書房
                 【PLAY】
 しかし、日本ではブリっ子はあまり肯定的な見方をされない。素直という日本文化の基礎にそぐわないからである。日本人の生活や伝統芸能は、素を以て神を行ずるのであって、適応のために演ずるのではない。
 他者との関係性を前提に、初めに他者ありきで化粧が援用される適応論であるならは、それはちょっと際どい。
 化粧の究極として ”仮面“ ないし ”お面” を想定するならば、「能」 のような伝統芸能も下記の記述で表現しうる。
 化粧をすることは、自分の脳に化粧をすることでもある。
 英語でビューティー・イズ・スキン・ディープ、美しさは皮膚の厚さしかないという言い方があるが、「化粧」 によって人間は外見を美しくするだけではない。内面をも変えることができるのである。
 先に述べた、カネボウ化粧品との共同研究の成果の第一弾として発見した脳内現象が、「素顔と化粧した顔とでは、自分の顔に対する認知活動が異なる」 ことだった。(p.49)
 甚だしき化粧(行き着くところの仮面・お面)の場合は、自分を消すこともできるし、自分の一部を拡大することもできる。

 

 

【魅力>美】
 美人かどうかは、物理的な造形より、コミュニケーションのとりやすさに重点が置かれていると考えられる。
 それと、おもしろい指標だと思うが、脳科学で顔をテーマに取り上げる時には、美しいかどうかという判断よりも、むしろアトラクティブネス、つまり魅力を感じるかどうかで判断される。
 アトラクティブネスという判断は、つねにどちらがより魅力があるか、という判断である。その 「序列」 が 「強制選択法」 で研究されることになる。たとえば、女性が二人いて、どちらを選ぶかという、比較選択となる。このチョイスには、もちろん欲望と深く結び付いているという意味では、美の要素も重要なポイントだ。
 しかし、美はアトラクティブネスの要素の一つにはなり得るが、唯一絶対の基準にはなりえないのである。(p.80-81)
 顔をテーマとした指標として 「表情力」 という言葉を用いたら、表情力≒魅力なのだろうか。それとも、魅力>表情力>美 となるのだろうか。表情力は心の柔軟性を表しているから魅力に近いのは間違いない。
 今、一番表情力のある女性と言ったら、先頃、フィギュアのジュニア選手権で世界一になった村上佳菜子ちゃんだろうか。バンクーバーの真央ちゃんは “鋼の表情” をしていた。あれでは到底神が舞い降りることはできない。
   《参照》   『あなたを成功に導く「表情力」』  中谷彰宏  ビジネス社
                【モテる人】

 

 

【顔と言葉】
 顔の化粧が対人コミュニケーションを円滑に促す行為であり、他者の視線を内在化させた社会的な存在である自己を確認することなのであれば、人はなぜ、コミュニケーションの要となる 「言葉」 に対しても、化粧をしようとしないのだろう。
 化粧には隠すところを隠し、見せるところは見せる役割がある。このコントラストが美しさをつくり出す。
 化粧された言葉は、美しい。言葉にも隠すところは隠し、見せるところは見せる聖なる峻別が問われるべきではないだろうか。(p.116)
 これを読んで、日頃、言葉の美しさをあまり心掛けていないチャンちゃんは、少々ビビった。
 “聖なる峻別“ というのは、ただならぬ表現である。
 「スッピンでいいじゃん」 と混ぜっ返す勇気はない。

 

 

【鏡】
 鏡には目に見える実体を映すだけではなく、霊的なものや不可視の神聖な存在をも映し出すと考えられていたのではないだろうか。
 わたしたちがいま必要としているものは、自分たちの外見を確認して整えるために使う鏡ではなく、古代の鏡が象徴していた、目には見えないものを映し出す鏡なのではないだろうか。それは、精神のあり様、言動、そして生き方そのものを映し出す鏡である。(p.121)
 日本語の言霊は良くできている。 “精神のあり様、言動、そして生き方” の規範こそ “鑑” そのものである。
 “姿” は “素(ス)の形” 、 “御魂(みたま)” は “見たまま” とも言われている。
(神道では、もっとも深奥にある神を “ス” で表す)
神社の神殿中央に鏡が置かれているところがある。「自霊拝」 のためであるという。
 日本人は鏡を見てわが姿を振り返り、心や精神に化粧をすることについて、まだまだ遅れているとはいえないだろうか。日本の社会は文化的な化粧の感度がきわめて低いように思われるのである。(p.137)
 それはそうだろう。
 “日本の社会は文化的な化粧の感度がきわめて低い” のではなく、 “日本の社会は文化に則して化粧の感度は高くならない” のではないだろうか。
 古来から日本人が尊ぶ 「清ら」 は 「清潔」 と 「美しい」 が同居することであり、「簡素」 側に傾斜する精神でこそあるのだから、「華美」 側に傾斜するのを良しとする心根は育たないだろう。芳香系やメイクアップ系より、基礎化粧品系の売り上げに占める割合が高いのが、日本での化粧品マーケットの特徴である。場から突出する自己を演出するためではなく、場を和ますことの方が、成熟した日本人女性の化粧意識に近いはずである。
 日本文化の本来は、加えて化粧(適応)するより、脱ぎ捨てて ”ス” に戻るほうにベクトル化されている。
   《参照》   『美的のルール』 加藤ゑみ子 DISCOVER
   《参照》   『共に輝く 21世紀と資生堂』 弦間明 求龍堂
   《参照》   『100着の衣装に、100通りの人生を』 ワダエミ 求龍堂
               【化粧文化・衣装文化】
 蛇足ではあるけれど、高校生くらいの娘さん時代に、サイケデリックであったりエキセントリックであったりする化粧に凝ったとしても、社会人になれば最早そんな化粧はしない。若者のケバイ化粧は、単なる若者特有の過剰な一時的突出である。そんな通過儀礼のような原宿や渋谷付近の現象を日本文化と捉えたがる外国人がいるから、わざわざ 「違う」 と説明したことが何度もあった。

 

 

<了>