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 一方の対談者である重松清さんは作家。この方の作品は読んだことがない。そうであってもこの対談の面白みが損なわれることはないだろう。
 「悲しいから涙を流すのではない。涙を流すから悲しいのだ」 という心理学の定説に関わって交わされている対談ではない。文学や社会学的な視点の対話である。

 

 

【流通する普遍をもった文学】
茂木:僕は春樹の小説は、面白いと思いながらも違和感があった。村上さんの小説における人間の描かれかたは、翻訳されるとロシアでもアメリカでもイギリスでも 「あぁ、人間だ」 と思われて流通するものである。僕が日常の中でリアルに感じている人間とは少し違う気がする。
重松:おそらく、僕らが生きているときのリアリティーとか、人間の実感は 「余りつき」 だと思うのね。余りを取っちゃって整数で流すと、すごく通りやすい。使いやすいけれど 「それだけではない」 という感じがあると思う。(p.89)
 以下では、「余り」 ≒ 「不純物」 という意味合いである。
重松:おそらく村上春樹の小説は、翻訳される以前から不純物が極端に少なかったと思う。1969年の学生を書いているのに、1981年の学生も普通に読んでいたわけです。だから、「その時代」 を描いていながら、国籍も時代も不明のところが少なからずあった。それを横に広げれば 「流通する普遍をもった世界文学」 になるんじゃないか、と。(p.90)
 村上春樹の小説のリアル感の希薄さはおそらく “死者の世界からの視点“ に起因しているのであろう。
   《参照》   『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄・村上春樹 (岩波書店)
               【村上春樹の文学観】

 この付近の記述に限って言えば、対談する両者は、あくまでも現実の側から、村上春樹文学の普遍性を語ろうとしている。しかし、茂木さんは、別の場所で以下のようにも書いている。

 

 

【「自分の人生はどこにも着地させられない」】
茂木:美術の衝撃は 「タナトス」 とまでは行かないけれど、生きるうえで全く役に立たないどころか、むしろ毒として働く場合もある。自分の人生に着地させようがないというか。おそらく、藝大の学生は、どこかでその洗礼を受けて 「自分の人生はどこにも着地させられない」 というような迷い道に入ってしまっている。(p.118)
 学生時代のことであるけれど、三島由紀夫のいずれかの小説の中に 「美とか正義だけを思いつめると、人間は暗黒の思想を知らず知らずのうちに覗き込んでしまう。おそらく人間とはそんな風に出来ている」 という一文を見出した時、私は “ハッ” として文学や芸術に魅せられつつあった自分自身の動因に気づけたことがある。それは背理を背負い込むことにもなり兼ねないタフな作業であるし、純粋で真摯な魂には危険すぎることでもある。
 全てではないにせよ多くの芸術家の魂の真実はこの辺にあるのではないだろうか。それを光に照らして表現しようとするのか、闇に紛れ込もうとする過程で表現するのかの違いなのだと思っている。大そうな誤解を招きやすいけれど、あえて単語で表記するなら 「エロス」 か 「タナトス」 か、ということである。村上春樹は後者寄りである。

 

 

【折り合いのつかない抽象性】
重松: 沢木耕太郎さんの 『深夜特急』 でも、旅をしてから何年も経たないと書けなかった。リアルタイムではやはり浅いものになっていたと思います。おそらく、年を取っていくと、大概の人は、「具体的なものに対する感受性と知識とか、ふところが大きくなっていく」 んですね。だからこそ、おじいちゃん作家が人生の達人みたいに言われちゃうんだけれども、その一方でランボーやラディゲとか早熟な天才が持っている 「訳の分からない抽象性」 は薄れていく傾向にあるわけです。だから、皆さんが持っている、もしかしたら社会と折り合いのつかないかもしれない抽象性は 「大事だな、羨ましいな」 と思うし、・・・(p.127)
 こう書かれているように、年齢と共に失われてしまうものもあれば、年齢を重ねなければできないことがあるのだから、若者は、現時点で表現しようのない “折り合いのつかない抽象性” を大切に抱えたまま生きれば良いのである。

 

 

【知的な涙?】
重松:「笑い」は、ベルグソン じゃないけれど、知的な行為であった。でも、涙は、知的ではないものと思われているんじゃないかな。
茂木:それでも 「知的な涙」 はあると思います。
重松:あるはすだよね。それはどういう涙なんだろう。
茂木:たとえば、「ヘンデルは 『メサイア』 を作曲しながら泣いていた」 という証言があります。そのとき、涙は、すごく知的なものだったと思う。・・・中略・・・。「神学や哲学で積み重ねてきたことを引き受けた上で、自分が泣くという行為に当てはめる」 という知的な営みが、大事だと思う。笑いの理想は、ベルグソンが記したように知的なもの。同じく 「涙も知的なもの」 ということをはっきり知らせるべきだね。
重松:それらを統合して感動があると思う。(p.166)
 知的職業を生業にしている茂木さんのような人にとっては、そのような 「知的な涙」 もありうるのだろう。
 しかし、2004年11月21日、八王子市民会館で東京ニューフィルハーモニック管弦楽団が演奏するヘンデルの 『メサイア』 を実際に聞いた時、私は涙の止まらない体験をしたことがある。演奏が始まって間もなく “美しい” という思いがはっきり脳裏をよぎった瞬間から、長い演奏が終わるまで全く涙を止めることができなかった。周辺の観客の迷惑を思ってハンカチを口に当て抑えようにも抑えられず涙に咽び続けていたのである。私は神学や哲学など詳細には知らないし、クラシックについても平均的な教養すら持ち合わせていないのである。この世の経験に照らして想起されるものがあったから涙するというようなものではなかった。嗚咽している最中は、明らかに 「感情を超えていた」 としか表現しようがない。おそらく何かに触発されて魂が涙していた、としか言いようがないのである。
 これと同じような体験は、別のオペラを観劇していた時、そして伊勢神宮の御垣内に入った時、一度だけ体験したことがある。感情を超えていた。それ以外に表現のしようがないのである。それは 「知的な涙」 などではなく、強いて言葉を充てるならば 「魂のインスパイアー」 と表現するしかないようなものだったのである。
 思うに、ヘンデルの涙は、茂木さんが解釈するようなものではなく、私の体験に近かったのではないだろうか。ヘンデルは天界から聞こえてくる音楽を、楽譜に書き写しながら涙していたのだと思っている。