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 それぞれの理由でアメリカ滞在中に行われた対談。言葉という文化に関わる内容や、芸術の社会性に関する対話が興味深い。1995年初版。
 世界中に読者を有する現代作家と言われていても、村上春樹の作品は2・3冊ほどしか読んだことがない。けれど、この対談集を読んで、他の作品も読んでみたくなってきた。
 河合隼雄氏についても、明瞭とはいえない数多の著作内容に読者としてやや憮然とし続けていたけれど、それこそが河合さんの手法であったことが分かって、好意的に思えるようになった。


【レスポンシビリティー】
 PTSD(ポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダー)心的外傷後ストレス障害について日米の違い。
河合 : レスポンシビリティーにも、個人のレスポンシビリティーと集団のレスポンシビリティーとあるでしょう。日本は集団というか、場のレスポンシビリティーですからね。だから、神戸に地震が起こったということを、なんとなく神戸全体で受け止めているのです。
 ところが、欧米人の場合あくまでも個人のレスポンシビリティーレですから、それをまたグッと受け止めて辛くなった人はノイローゼになってしまったりするんです。 (p.23)
 イチローがオリックスにいた頃、ユニフォームの肩口に 「がんばろう神戸」 と縫い付けられていたのを思い出す。レスポンシビリティーはアイデンティティーに相関する。日本人でPTSDにかかりやすい人というのは、集団や場への心理的帰属が希薄な人、ということになろう。

 

 

【ディタッチメント】
村上 : ぼくの小説も英語に訳されて、アメリカでそれを読んだ学生と話をするのですが、やはりどこかうまく合っていないという感じがある。そのかわり、意外なところで感心したり、おもしろがったりするんです。でも、アジア人の読者はだいたい日本人の読者に似ていますね。
河合 : 英語で読んでも?
村上 : 英語で読んでも、それから中国語や韓国語で読んでも。それで、おもしろいのですが、彼らが求めているのはディタッチメントなんですよね。つまり自分が社会とは別の生き方をすること、親とは別な生き方をすること、そういうものをぼくの小説の中から読み取って、そこにある程度思い入れをするところがあるみたいですね。
河合 : それはおもしろいですね。韓国や中国の場合は、ディタッチメントというのはこれからすごく大きな課題になると思いますね。韓国、中国の場合は家族、一門のつながりというのがものすごく大事な意味を持っていますから、そこからディタッチするというのは命がけの仕事ですからね。 (p.51-52)

 盆暮れにおいてすら儀礼を無視する祖先への不敬や、目上親族に対して意図的にむかついた態度を示す日本人の若者が日本国内には案外多いのではなかろうか。中国・韓国はそういった日本に追随するだろうか。
 東アジアの儒教的家族関係は、農業という土地本位の生産手段に依存していた時代には相応しいものだったけれど、もはや縁故者によらずとも職業の選択が可能なのだから、かつて生存に関わっていた農地など、資産価値としても執着に値するものではない。故に、家長や親族に不敬や無礼を働こうが一切かまうことはないと考え行動する若者達は増えるだろう。
 そういった若者たちに対して、目上である大人達が冠婚葬祭などの儀礼を全うする必要はなくなると私は考えている。なぜなら、日本社会に根付いてきた冠婚葬祭にまつわる目上側のご祝儀(ふるまい)は、目下の目上に対する義務と相補関係にあったはずだからである。
    《参照》  『オヤカタはデメリットだけであったのか』 八洲次良 東京図書出版会
 義務(肉体的労力などの提供関係)が崩れている今日でも、目下に対してご祝儀を提供する儀礼を守るのは、そもそも本質的に意味を成していないのである。ましてや礼節を欠く目下など、他人以下の存在として認識すべきであろう。こういった輩にご祝儀を提供しようと考える目上は、甘すぎるというよりアホに近いのではなかろうか。
 日本文化の基盤となる、祖先に連なる血族としての連続性も、礼節あってこそであろう。祖先が守護霊となっている場合であっても、誰彼見境なく平等に守護するわけではない。生きている人間と同じ心で見て判断しているはずである。
 ディタッチメントの現実的側面に対する思念が最も及んでいないのは、中国や韓国ではなく日本の若者たちなのではないだろうか。祖先(親)に対する積徳(孝)の行為はなく、それでいて親族から援助が得られると期待し、なおかつ資産の分配にも預かれると考えるのは、舶来の法的権利を盾にした義務なき権利の主張、自己責任なき甘え以外の何物でもない。日本では昔からこういった輩を形容するのに “恥知らず” という表現を用いてきた。

 

 

【同化する気質】
河合 : 青年期にはだれでも、ぼくらの時代だったら、小説を読んだり、映画も見に行きますよね。そしてあとでみんなでしゃべったりしますよね。そういうとき、みんなは批評というのをすぐするのですが、ぼくは批評ができないのですよ。主人公にアイデンティファイしているから。「なんであんなあほなことしたんだろう」 とか、「あのときにあれがおったらよかったのに」 とか、ぼくが言いたいのはそんなことばっかりです。ところが、みんなは「いや、あの表現はなんだ」 とか、「あれはナントカ主義だ」 とか言う。
 ぼくはそういうのはぜんぜん分からなくて、われながら情けない思いをしていたんだけど、それをずっと貫いてここまできて、かえってそれが役立っている感じですけどもね。 (p.132)
 これを読んで、河合隼雄氏の数多の著作にいまひとつピントが合う感じを抱けなかった理由が分かった。河合氏は、本質的に右脳タイプの方なのだろう。私は常に左脳的な読者であったから、こうならざるをえなかったのである。
 村上さんは、右脳の活性化を鋭意取り入れている芸術家なのだろうか。わずか数冊しか読んでいない読者の見解では正確とはいい難いけれど、精神性(意識)と身体性(無意識)の両方が適度に混ざっていそうな気がする。

 

 

【村上春樹の文学観?】
 以下の記述は、非常に興味をそそる。 いつも 「小説家はこうであらねば・・・」 と思っているから。
村上 : ぼくは小説を書いていて、ふだんは思わないですけれども、死者の力を非常によく感じることがあるんです。小説を書くというのは、黄泉国へ行くという感覚に非常に近い感じがするのです。それは、ある意味では自分の死というのを先取りするということかもしれないと、小説を書いていてふと感ずることがあるのですね。 (p.163)
村上 : あの小説 ( 『ノルウェーの森』 ) の中ではセックスと死のことしか書いてないんです。 (p.167)
 しかし、『ノルウェーの森』 を読んだとき、著者が表現していることを、私は全く感じ取っていなかった!

 

 

【暴力性】
村上 : 身体性という問題に関連してもう一つ、暴力性ということが大きな問題になってきますね。『ねじまき鳥クロニクル』 においては、それが大きく出てきたのです。・・・(中略)・・・。 (p.166)
河合 : とにかく現代の日本のわれわれは和という点に妙にこだわりすぎたのと、精神と肉体の乖離にために、暴力に関してはすごい抑圧を持っているのです。だから作品の中で突発してくるのではないか、というふうにぼくは思っているのです。 (p.171)
 暴力を抑圧している2点。和という点へのこだわりすぎと、精神と肉体の乖離。
 後者のポイントは世界人類共通で、複数のガス抜き手段があろうけれど、前者のポイントは日本文化に固有なもの。 「和を乱す人物」 という理由を用いて、相手を排除しようとする日本人相互の関係。それは高貴で協調的集団であるという共同幻想に支えられている集団であればあるほど、修復不能なまったき破綻、ないし過度な破壊を生む可能性が高くなる。
 西洋社会において、過度な理想主義の弊害として破壊がもたらされてきたことは史実だけれど、日本社会において西洋社会に対置できる破壊の要因は、過度な和へのこだわりなのだろう。
 異質を和光同塵化する許容性と多様性は、経験的に日本の和合社会に備わっていたはずであるけれど、若者が体現する未熟な和合社会は、とかく異質を排除する側に振れるという潔癖な性がある。これが暴力を生みかねない。

 

 

<了>