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 7つの短編が掲載されている。不感症サイクルに入っている時期に小説を読んでも何も感じない。こんな時に感じ取れたとしたら逆に不気味である。

 

 

【死 : それについていったいどう感じればいいの】
 『トニー滝谷』 という作品。トニーは滝谷省三郎の子供。
 結婚した翌年には男に子が生まれた。子供が生まれた3日後に母親は死んだ。あっという間に彼女は死んで、あっという間に焼かれてしまった。非常に静かな死に方だった。何の葛藤もなく苦しみらしい苦しみもなく、すうっと消え入るように死んでしまったのだ。誰かが裏にまわってそっとスイッチを切ったみたいに。
 滝谷省三郎はそれについていったいどう感じればいいのか、自分でもよく分からなかった。(p.119)
 この作品に登場する滝谷親子の乾いた心模様が、今の自分には良く合っていた。自分の身内の時もこんな感じだった。まるで感情が停止していて、全く何も心が動かなかったのである。
 そもそも人の死は、愁嘆すべきものなどではないし、向こう側の世界から見たら誕生な訳で、むしろ喜ばしいのではないかと思っている。そもそも長期間肉体の苦しみに係留されていた後の死であるのなら、その苦しみ(業因)の終了ということで、「肉体の束縛から自由になれて、よかったね」 と思うだけである。
 けれど、感情の停止は、そんな霊智とは別の処で起こっている。過去のどこかの時点で過度な心理的衝撃を受け取った習いから、これを阻止するために心理的受容体の感度を下げ切っているのだろうか。あるいは、それに類することに起因しているのであろうと思うことがある。しかし、感情の停止が完璧すぎて、その依って来たる所以を辿りようにも辿れないのである。感情が何かを厭離し隔絶させてしまっているのだろう。
 こうなってしまうと、当人は人生の主人公になれない。他に術がないから人生に ”知” でつながろうと空虚な生き方を実践することになる。呪術で賦活されているゾンビとさして変わらない。
 だから、この滝谷親子の様な人物を主人公にすると、ドラマティックなストーリーは描けないことになる。客観的な事後報告を淡々と記述するだけの小説にならざるをえないのである。そして、このような文学は “淡々とした記述が良い“ という人も少なくないことを知っている。そういう人々は、私とは違う見方でそう言っていることを知ってもいるのではあるけれど・・・・。

 

 

【死 : 眠り続ける】
 『レキシントンの幽霊』 の中に出てくる親子。
 母の葬儀が終わってから3週間のあいだ、父は眠り続けた。誇張して言っているんじゃないよ。文字どおり、ずっと眠っていたんだ。・・・中略・・・。彼は地中に埋められた石みたいに深く眠っていただけだ。おそらく夢さえ見ていなかったと思う。(p.35-36)
 父が死んだとき、僕もまた、母が亡くなったときの父と全く同じように、ベッドに入っていつまでもこんこんと眠り続けたんだ。まるで特別な血統の儀式でも継承するみたいにね。
 たぶんぜんぶで2週間くらいだったと思う。僕はそのあいだ眠って、眠って、眠って・・・・、時間が腐って溶けてなくなってしまうまで眠った。・・・中略・・・。眠りの世界が僕にとって本当の世界で、現実の世界はむなしい仮初の世界に過ぎなかった。(p.37)
 感情の壊れた人間として “むなしい仮初の世界“ を生き続けるのと、 ”眠りの世界という本当の世界” で慰撫されつつなんとか生を耐えるのと、どっちがましなのだろう。
 どっちでもありたくないけれど、人生に馴染みづらいと感じている人々が、小説によって人生を代替しようとすると、こんなモチーフに転がり込んでしまう。
 村上春樹に関して過去に書いた読書記録のいずれも、このモチーフに重なっている。
 『アイロンのある風景』 、『アフターダーク』、そしてこの短編集の 『レキシントンの幽霊』。
 どれも “眠り” がキーになっている。

 

 

<了>
 

  村上春樹・著の読書記録

     『心ゆさぶる平和へのメッセージ』

     『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』

     『レキシントンの幽霊』

     『アフターダーク』

     『神の子どもたちはみな踊る』

     『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

 

 

 【フィーネ
 2006年の8月から始めたこの読書記録のブログも、ちょうど3年が経過しました。
 切りのいい処なので、暫く私も “眠る” ことにします。
 いつ目覚めるのか分かりません。