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 部分的にはハッとする個所がいくつかあるけれど、全体的にはあんまりパッとしない内容の小説。
 前半は、会話の中に著者の小説ならではの雰囲気が感じられたけれど、後半は、その会話が、人生を考える重厚さのために用いられてしまっていて、ちょっと不似合な感じ。

 

 

【放火・・・】
 「警察に電話すると、このあたりで火事が出るかもしれない」 と男は言う。
 しばらく深い沈黙が続く。カオルは目をそらさず、腕組みをし、相手の顔を見ている。顔に傷つけられた娼婦は、やりとりを理解できないまま、不安げに二人の顔を見比べていた。(p.66)
 これを読んだ時、最近(といっても2か月ほど前だっか)、渋谷のホテル街でおこった火災のニュースを思い出していた。中国人が絡んでいるなら、これくらいのことは簡単にしかねないだろう。
 小説家というのは、いろんな世界の人々に接していろんな情報を仕入れ、それらを素材にしている。警察官よりも詳しい情報を持っている可能性は多いにありうることである。

 

 

【 真に受けて読んではいけない 】
 中心的な登場人物である、高橋とマリの会話。
「それでさ、ライアン・オニールが苦労の末に弁護士になって、どんな仕事をしているかっていうと、そういうことは観客には情報としてほとんど知らされないんだ。僕らにわかるのは、彼が一流の法律事務所に就職して・・・中略・・・」(p.144)
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 エリック・シーガルの 『ある愛の詩』 のストーリーを語っているのであるけれど・・・、
 高橋はグラスの水を飲む。
「で、そのあとはどうなるの?」 とマリが尋ねる。
 高橋は少し上を見上げて筋を思い出す。「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。・・・中略・・・」 (p.144)
 真に受けて読んではいけない。 『ある愛の詩』 の最初の一行目を読めば、大ウソであることは分かるようになっている。

 

 

【反省はしなくても、教訓は学ぶ】
 高橋が、刑務所暮らしをしたことのある父親について語っている。
 「でも今はまずまずのところで落ち着いている。なにしろ団塊の世代だからね、しぶといんだ。ミック・ジャガーがサーの称号をもらうような世代だ。ギリギリのところで踏みとどまって生き残る。反省はしなくても、教訓は学ぶ。・・・中略・・・。」 (p.212)
 最後の文章に感心してしまった。団塊の世代というのは、学生運動に明け暮れて、その結果、就職に難儀するような時代を生き抜いた世代の人々なのだから。
 普通の良い子は “反省しても、教訓は学ばない” だろう。 “素直” は “しぶとい” の純粋な反対語ではないけれど、素直な子にできる芸当ではない。

 

 

【 “生きていく意味” が壊れる時 】
 訳あり故にラブホテルで働いている関西弁のコオロギさんと、マリちゃんは、自然と本当の想いを語り合っていた。
「・・・中略・・・。正直な話、私はこれまでにけっこうたくさんの男とセックスしてきたけど、考えてみたらね、それは結局のところ、恐かったからやねん。・・・中略・・・。そんな風にセックスしてもね、なんにもええことなかった。生きていく意味みたいなもんが、ちびりちびりすり減っていっただけやった。私の言うてることわかるかな?」 
「たぶん」
「そやからね、マリちゃんもちゃんとええ人を見つけたら、その時は今よりももっと自分に自信が持てるようになると思うよ。中途半端なことはしたらあかん。世の中にはね、一人でしかできんこともあるし、二人でしかできんこともあるんよ。それをうまいこと組み合わせていくのが大事なんや」 (p.241)
「一人でしかできんこともあるし、二人でしかできんこともあるんよ」 そう、この純一性を失うと、破裂せずとも確実に微小な穴の開いた風船状態になってしまっていることをさめざめと自覚することになるだろう。
 フリーセックスが、人間の “生きてゆく意味” を壊すことになる核心の記述である。幼年、少年、青少年を対象にしたセックス・アニメの悪魔性は、それに魂を取られてからでないと気付けない。(あるいは取られていても気付けない)。それを描く漫画家は、飛びっきりの悪業を積める。
【天性と霊性を損なう乱脈なセックス】

 

 

【眠りこんでしまいたい】
 コオロギさんとマリちゃんは、眠り続けているマリの姉・エリについて話している。
 コオロギは言う、「あのね、私にはもちろん詳しいことはようわからんけど、お姉さんはなんか大きな問題を心の中に抱え込んでるんやないかな。自分ひとりの力ではどうにも解決のつかんようなことを。そやから、とにかく布団に入って眠りこんでしまいたい。とりあえずこの生身の世界を離れてしまいたい。その気持ちは私にもわからんでもない。というか、身につまされてよく分かるよ。 (p.234)
 エリの長い眠りには、コオロギさんの言う “生きていく意味” の喪失と、同根異形のものがあるのだろう。
 “反省はしなくても、教訓は学ぶ“ ような ”しぶとい“ 人々ならいざ知らず、ナイイーブな人々は、“眠りこんで、生身の世界を離れてしまいたい” と思うことがしばしばあるのではないだろうか。
 私の場合は、ポーラスターを指定して帰りたいと思いたいのだけれど、そこは古典道徳的な教えが厳しいところなので、“人生の意味を学んどらん” と言って門戸を閉ざされ追い返されそうな気がするので、特に指定はせず、受け入れてもらえそうな星ならどこでも・・・という感じで、目覚めない眠りを希求しつつ眠りにつくことがよくある。
 やはり、眠りが安息の場所なのである。
 八神純子の 『DAWN』 という歌詞の冒頭に ( 銀河の光が、夜明けに溶ける空、さよなら、少女の私が 眠るふるさと) とあるように、夜明けと同時に、私たちは魂の故郷とは一時おさらばしなければいけないのである。目覚めている時間は、試練の時間。そう割り切って生きるしかないのではないだろうか。
 マリと同じ人生経験上にある人ならば、少女の心(妙なる心)をもったまま、 “しぶとく” ならずとも “生きてゆく意味” を失わずに生きる方法を、少なくとも、この小説は示している。

 

 

【アフターダーク】
 この小説は、最も日の短い季節の、23:56から翌日の6:52までのストーリーで、日の出の時間(『アフターダーク』)に、眠り続けているエリの唇に浮かんだ微かな動きを捉えて、こう結んでいる。
 私たちは、その予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。(p.288)
 『神の子どもたちはみな踊る』 の中に収録されていた 『アイロンのある風景』 の続編のようではないか。眠りに慰撫されて、目覚めたとき、兆すものに期待を込めているだけで、やはり、本質的な救済を明確にしているわけではない。そうできないから、「次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」 と先送りする優しさで締めているのである。(これって、作家の限界を知っている人の本当の優しさかも・・・・)

 

 

 

<了>