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 本書は笑いの感覚を身につける方法を、系統的、理論的に書いた本で、いわば 「笑学教科書」 にもなっていますが、決して読みにくいものではありません。
 と、まえがきに書かれているけれど、単に分類してその具体例をいくつも列挙しているというだけの内容。体系的な内容はないので、読後に何も残らない。

 

 

【日本人のジョーク感】
 日本ではジョークを口にする 「ような」 人は、軽薄な信頼性に欠ける人だ、というような観念が通用しているからです。・・・中略・・・。
 われわれの祖先は 「一生懸命」 働かなければ生きて行けなかったのです。
 またそれに拍車をかけたのが、明治維新以降の、列強に追いつくための 「富国強兵」 の国策でした。
 懸命に働いている人にとって、笑いはともすれば緊張の保持を困難にさせ、人々を安易からさらに怠惰へと誘う、きっかけになるかも知れません。
 確かに、祖父や祖母の時代の写真を見ると、笑っている顔というのにはめったにお目にかかったことがない。普通というよりは歯を食いしばっているといった感じの人々が多い。しかし、明治維新前はそんなことはなかった。
 徳川時代以前の日本人は、世界的にもすぐれた笑いの文化を創り出していました。つまり、俳諧、川柳、狂歌、狂言とか落語などです。 (p,17)

 

 

【笑の本質論】
 現在までに提起されている笑いの本質論は、大体次の3つの説に集約されていると見るのが一般的です。
 それは、
 ベルグソンのこわばり説
 スタンダールなどの優越感説
 フロイトの余剰エネルギー説
 です。
 アンリ・ベルグソン(1859-1941)はフランスの生んだ今世紀最大の哲学者の一人で、「生の哲学」 の主唱者として有名ですが、1900年 「笑い」 という著作を発表しています。  (p.27)
 ということで、ベルグソンからの引用を提示しつつ、笑いの3原理を元にウジャウジャ書かれているけれど、この書籍には笑いに関する有機的な体系が示されていないのである。だから、てんでまとまりを感じられない。
 だからこそ、知性は居眠りを始めてしまい、「こと笑いに関して逐一分類するなんざぁ、ヤボのすること!」、と思えてきたから、途中から開き直って、「笑いは笑いでいいじゃん」、と笑いの実例を読むだけに終始してしまった。

 

 

【 『早起きは3文の得』 】
 父親が朝寝坊の息子に小言を言う。
「 『早起きは3文の得』 っていうのを知ってるだろう。早起きするとお金の一杯つまった財布を拾うことだってあるんだから」
「でも財布を落とした人は、拾った人より早起きしたんだろう?」 (p.71)
 これは、ベルグソンのこわばり説(先入観=思い込み)に分類される。
 けど、こんな分類はどうでもいい。
 諺に関しては、混ぜっ返しのギャグを・・・。
 『雨降って地固まる』 は長期的に見た綺麗ごとで、直面している瞬間は 『雨降って地ぬかるむ』 である。
 『猫に小判』 と不要・無駄なものを語るより、直接に必要・有効なものを語ろう。 『猫には餌』 
 『人の振り見て、我が振り直せ』 ってほんと? 「学ぶ」 は 「真似ぶ」 から始まるのだから、 『人の振り見て、私もフリフリ』 ではないか。真摯な指導者が “他山の石” を投げ込んで注意を喚起しても、そんなことには気づかぬままフリフリしているノー天気ぶり又は没頭ぶりが本物である。

 

 

【葬儀】
 曾祖母の葬儀に参列したひ孫(4つ)。僧の長々と続く読経にただ退屈。一区切りつくごとに 「もう終わり?」 を繰り返す。やがて読経が終わり、僧が立ち上がるやいなや 「お地蔵さん、もう帰るの」。 一同笑いをかみ殺すのに一苦労。 (p.79)

 

 

【パロディー】
①  ぼくは君といる時が一番しわよせがくるんだ
②  間借りなりにも楽しいわが家   (p.129)
 日本語固有のパロディーなので、普遍性はない。
① は、ブルドックの偕老洞穴的円満ペアであれば完璧。
② は、モグラの家族のみ文字通り本当の正解を実感できる。
 
 
<了>