《前編》 より

 

 

【優しさの談合】
重松:言ってみれば 「微笑みよりも嘲笑」 というか。その最たるものが 「いじめの笑い」 かもしれない。笑うことが 「自分たちが安心できる、高みにいる、安全圏にいるという談合」 になり、涙は 「自分たちが優しいという談合」 になっている。だから 「悲しくて涙を流す」 のではないと思うんだよね。(p.150)
 いじめに関する日本の子どもたちもそうであるし、近隣諸国には、葬儀の時に泣くのを専門にする人々が雇われる習慣があるけれど、感情が共同体によって方向づけられ、それに盲従していると、個人の本当の 「涙の理由」 は分からなくなってしまう。

 

 

【涙の所有権】
茂木:不意打ちされて、予想できない形で襲ってくる事態をきっかけにして涙を流すことはあるでしょうね。その人物なりの履歴や記憶があるからこそ、涙が、「その人のもの」 になる。「涙の所有権」 というか・・・。(p.194)
 この事例として、清原のことが語られている。西武に入団した年の日本シリーズ。9回2アウト、あと一人で優勝という時、一塁を守っていた清原の頬に流れていた涙。純粋な心で憧れていた処に帰属することができなかった経験のある人々なら、清原のこの涙を痛く共有してしまうことだろう。しかし、この経験に直結する真実の 「涙の所有権」 はただ清原のみが有している。
茂木:涙を自分のものにすることは、なかなか難しい。映画を見て流す涙は、はたして自分の涙になっているのかどうか。
重松:いま僕も同じことを言おうと思っていた。いわゆる百万人が涙した 「小説や映画で流れる涙」 と。もっと個的な 「体験や個人の歴史から流れる涙」 が、同じかというと、やはり違う気がする。(p.195-196)
 今世、その経験をしていなくても小説や映画で涙が流れてしまうのは、魂に記憶されているものがあるからなのだろう。そう考えれば、「涙の所有権」 はなくとも、「涙の復習権」 は誰にでもあると言えるはず。

 

 

【万感の種と、歴史の中に仕掛けられた人類に対する罠】
重松:万感の種は、一個一個を取り出してみたら心地よいものではないと思う。むしろ悔しさだったり、歯がゆさだったり、居心地の悪さだったり。それを一つひとつ、安易に心地よさに変換して楽にすれば、万感の種は溜まらなくなる。だから、いい涙を流したければ苦労しろというところがあると思うんだ。だから、ハッピーな人の涙よりも、艱難辛苦を乗り越えた涙のほうが、やっぱり俺は、深いと思う。
茂木:皮肉にできていますよね。生物は、とにかく苦痛を避けて快楽を求めるようにできています。ところが、最上の快楽に至るには、苦痛を避けていると、そこには至れない。そのように、回り道をしないといけないようにできている。昔は、生きる環境が過酷だったから、快楽を求めて苦痛を避けようとしても自然と・・・。
重松:苦痛は来ていたんだよね。
茂木:自ずと遠回りするようにできていた。ところが、文明が発達したために、苦痛を避けて快楽だけを求めようとすると、現代ではそれが実現してしまう。
重松:怖いね。
茂木:歴史の中に仕掛けられた、人類に対する罠じゃないかと思う。
重松:そうだね。(p.226-227)
 まったく。
 私は温室育ちの空け者みたいな奴だから、自分の人生経験からして “万感の思い“ など決して持てないことはよくよく分かっている。しかし、そんな私が、その “万感の思い“ を体験したことがある。
 もう7年ほど前になるだろうか、富士五湖の一つである本栖湖畔でとある神事に参加したことがある。中国人の方術師によって目を潰され縄で縛られ湖底に沈められていた龍が、積年の呪縛から解き放たれ癒されて出てくる時、その余りにも複雑に重なり合った龍の感情が私の心に一挙に流れ込んできたのである。あまりに強烈な想いの圧力に心が張り裂けそうだったのである。その感情を表現しようとすれば、まさに “万感の思い“ という表現以外にないのである。そう、まさに “万感の思い“ 。
 こんなことを書くと眉唾に思われるどころか、バカかアホに違いないと思われるかもしれないけれど、私の中では紛れもない事実である。その時、その神事に参加していた人々はこの体験を共有しているはずである。

 

 

【抑制と文化 : アメリカによって仕掛けられた日本に対する罠】
重松:変だなと思うのが、皆が 「無表情になったとか、感情を表に現さない」 と言われる一方で、ささいなことで 「キレる」 とも言われる。喜怒哀楽は、リミッターを適度に開いたり、閉じたりすることで生まれると思うけれど、いまは、オールオアナッシングで、完全に密封するか、ポコンと全開になるかの二つしかない。
茂木:抑制のはずし方の計算式が単純化してしまうと、重松さんがおっしゃった 「正しく怒る」 こともできなくなりますね。社会的には単純な振る舞いのほうが有利というか、わかりやすいのかもしれない。僕は、非常に重要な問題だと感じているところがあります。(p.232-233)
 アメリカ式エンターテイメントに影響されて、日本人本来の表現様式である日本の文化が後退している。繊細な表現で綴られた日本の文学小説を読んだことのある人々なら、多彩な映像や過剰な音響で脳を全的に支配しようとするアメリカ式エンターテイメントの悪質さを容易に看破できるし、自ずから避けるようになるはずだけれど、最初からアメリカ式文化に触れている若者は、その底の浅さ、繊細さの欠如にからっきし気付けないから、ことは難儀なのである。
 これは、歴史の中に仕掛けられた人類に対する罠というよりは、戦後、アメリカによって日本に仕掛けられた罠である。
 
 
<了>