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 『タオ・コード』 は読みものとして非常に面白いし価値のある内容だけれど、この本は、副題にあるように「老子の秘儀の活用術」である。シンプルに記述された活字量の少ないこの本は、それだけ密度が濃いものであり、この本を“おみくじ”として活用する方法も記述されている。
 久しぶりに読書記録を書いたから、かなり御随意なことを書き添えてしまった。暴走ではないけれど、活字量を少なくしている本書企画の意図は、完全に踏みにじってしまっている。2011年6月初版。

 

【玄牝(げんぴん)の門】
 Taoの領域は体感の中にある
 人は体感を極める時
 時を超え時を操る   (p.12)


 未来は予感の段階で決まる。・・・中略・・・。大切なのは、力んで未来を切望することではない。未来と会話することだ。未来を空想することは、心が「今」からはずれることであるが、予感は、自身の体感を今感じることである。未来は、今が創るのである。
 今の体感の奥へ奥へと入る時、人は、万象と会話することのできる時空を超えた領域へと至る。その時、人は、時空を超え、未来を操る精霊的存在となる。その入り口を、「玄牝の門」と老子は言う。

「玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不動」
(女性器のような受容性こそ万物創造の本質だ。それは時に縛られることなく無限に未来を作り上げる)
―― 老子六章      (p.13)
 体感を最高度に高めるには、「絶対的ゆだね」「広大なるあけわたし」と表現される受容段階を経なければならない。その時、初めて時空を超えた宇宙次元に通ずるのだろう。
   《参照》  『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《中編》
            【「絶対的ゆだね」「広大なるあけわたし」】

 女性が、左脳優位として構造化されている経済社会に参加し、貨幣経済構造の中に取りこまれてしまえば、生来、感覚的・感性的で右脳優位にできている女性たちは、本来の女性性を破壊され、女性本来が持つ、“体感の極みにあるTao”が完全に封殺されてしまう。
 「闇の支配者」たちが推進している「女性の社会参加」は、「納税者を増やすための就業人口増加」こそが目的なのであって、Taoを招く女性性の復活が目的なのではない。「闇の支配者」たちは、「女性の社会参加」を推進しながら、同時に、女性性の復活を計画的に封印し続けているのである。殆どの女性たちは、この点を全く理解できていないだろう。
   《参照》   『聖書の暗号は知っていた』 伊達巌 (徳間書店) 《前編》
              【ウーマン・リブ運動の企み】

 なお、老子が言うところの「玄牝の門」に関しては、千賀一生さんの解釈が“極”なのであろうけれど、生活に根差すという点では下記も重要なのでリンク。
    《参照》   『元つ神に「光ひとつ上ぐる」仕組み』 白山大地 (ヒカルランド)
              【「玄牝の門」】

 

 

【以身観身】
 誰かにあこがれ
 何かにトキメキを感じた
 その深さと質の分だけ
 あなたは誰かのあこがれとなり
 何かの光となる    (p.18)

 輝く人は、輝きを観ることができる目をもっているがゆえに輝くのだ。
 人を知れば知るほど、人の中に嫌なものしか観れなくなる人がいる。これは、自身の心のフィルターを観ているに過ぎない。フィルターとは、我であり、我の分量に応じて、人間は幸せが自動的に制限されるようにできている。
 幸せな運気の人は、すべて輝いて観え、すべてが感謝の対象に観える。

「以身観身」(身を以て身を観る) ―― 老子五十四章  (p.19)
 欲に支配された現実というドロ沼にズッポリ嵌っていると、トキメキや輝きなんてテンデ感じられなくなってしまう。フィルターが泥だらけ。危険。

 

 

【快】
 学年最下位の中学生が、数カ月で学年トップになった実例がある。彼の能力向上は、ある「一つの趣味に没頭することで、快の精神状態になった結果であった。快の心に自ら保つことを体験的に学んだ彼は、大人になってツキまくりの人生を歩んでいる。
 快を保つとは、実際には、快となる行為を選択し続けることであり、その行為が潜在能力をさらに引き出すのである。
 このたった一つの違いで、人間の能力も運気も、百八十度変わってしまう。
 人間の能力は、はかりしれない。それを使いこなせるかどうかのカギは、快にある。
 この快という働きは、性以前の宇宙的性エネルギーによって発露する、存在というものがもつ、最も確かな見えざる導きだ。 (p.22)
 バシャールが言っている究極的なワクワクとは、この“快”のことだろうけれど、この地球生命圏に生きている人で、ワクワクできるものを見いだしている人は極めて少ないだろう。
    《参照》   『バシャール×坂本政道』 ダリル・アンカ/坂本政道 (VOICE) 《前編》
              【信念の変化は、ワクワクのプロセスの一部】

 20年以上もこの世界で生きていたら、社会意識という刷り込みが効き過ぎていて、自分にとっての“快”を正しく見いだせていない人の方が圧倒的に多いんじゃないだろうか。
    《参照》   『アセンションの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド)  《前編》
              【社会意識(コントロール・グリッド)という檻から出る】

 おそらく、社会意識の多くを定めている貨幣経済制度自体が、根本的に転換しないと、人々はワクワクを見いだせない。ましてや借金を抱えている人にとって、負債の免除が実現しないことには、ワクワクどころではないだろう。殆どの人は、貧富の二極化が進行している社会状況の中で、「お金が十分あったら“快”になれる」と、ずれた意識のまま、ますます深みに嵌って行くだけである。
 だからこそ、意識の変革によってこそ牽引される「進化(アセンション)」を達成させようとするには、負債の免除を重要な一つの項目としている経済制度改革であるNESARAの実現が不可欠であり、人類の進化を阻止したい「闇の支配者」達は、NESARAを強靭に阻み続けてきたのである。
 NESARAについて分かっていない方は、下記のリンクに紐付くリンクを全部辿ってください。
    《参照》   『宇宙人の告白』 田村珠芳 (TO文庫) 《前編》
              【銀河連邦からのメッセージ】

 

 

【架空の愛の世界】
 人間は見かけ上、様々なものを求めているように見える。恋人、結婚相手、お金、物、権力、名誉、数えあげればきりがない。しかし、本質では、たった一つのものしか求めていない。それは愛である。愛以外を求めているという人は、自身の心が分かっていないだけだ。あらゆる欲は愛の代償として生まれる。愛に満たされていない人間は、異性の獲得を愛を得たことと錯覚する。そうして所有の愛が生れる。その心理は、物品を得ることをも愛の獲得と錯覚する。買い物をすることでストレスの解消を感じる心理もそれである。その心理はまた、人々を自身の配下に置くようなことを大きな愛の獲得と錯覚する。それらは、いくら求めても終着点のない架空の愛の世界だ。
 Taoは、全てとつながり合った完璧な愛の領域だ。Taoに至った人間は、居ながらにしてすべてを満たす愛を享受する。何ものにも依存せずに愛を得るのである。 (p.101)
 さんざん“物”を得ても満たされないと感じている人は、次に、“必要とされている自分”であることに生きがいを感じる段階に至るだろう。しかし、相手にとって自分が必要な存在であることは、本当の愛にかなった状態ではない。相手がいなくなってしまったとき行き場のない愛は愛ではない。愛は必要性ではないのである。
 ボランティア活動などで喜びを感じているのなら、そこに何らかの“快”があるからだろう。施す側にも施される側にも“快”があるのなら、ボランティア活動にも意味がある。
 福祉活動やボランティア活動自体に愛があるわけではない。肉体的・経済的弱者救済に関与すことで生ずる“快”が、愛の場を拡張する可能性を含んでいるというだけである。施される側が当たり前として受け取り、施す側も無償活動であるにせよ“快”を見いだせていないのであるなら、福祉活動もボランティア活動も、結果的にはやはり「架空の愛の世界」である。(福祉事業に寄生する天下りたちにとっては、言うまでもなく最初からピッカピカの「架空の愛の世界=愛を擬態とする寄生虫の世界」である)
 ボランティア活動参加者の中にあって、自らの魂が欲する“快”に基づいて参加する人々と、社会的に善なる行為者としてよく見られたいという“欲”から参加する人々では、どちらが多いのだろうか。後者であるのなら、Taoに至る可能性は限りなく小さい。

 

 

【爽快感をもたらす体の中心軸】
 人生が思うように行く人であるかどうかは、快感覚力で決まるが、快感覚力を体得する一番の近道は、体本来の動きを会得することだ。
 体は本来、爽快なものであり、すべてを知っている。心という陽と、体という陰は、相補完し、抱いた陽によって背負う陰は決まり、背負う陰によっても抱く陽は決まる。
 天へとつながる体には、体の真中心のエネルギーがしっかりと流れる。・・・中略・・・。宇宙的認知は、陰陽を結ぶ体の核、中心軸で決まるのだ。 (p.36)
 「爽快感なんて、生きている間に殆ど感じたことなどない」と思ってしまったチャンちゃんは、Taoからかなり離れてしまっているんだろう。
 体の中心軸である背骨の歪みは、人相上では鼻筋の歪みとして現れるけれど、背骨は先祖の集積でもあるから、家系のカルマという負債が多いと、天とのつながりに支障をきたすことになる。