イメージ 1

 著者が中国雲南省にある村を訪れた時に出会ったM老人から学んだ “老子の真意”、そしてその村の人々と生活を共にすることで体験的に知り得た “性” がもつ本質的な意味が、著されている。
 現在の人類の行き詰まりの根本を照射する優れた著作である。2009年2月初版であるけれど、それから僅か3年で多くの版を重ねている。多くの人々がいまだに物欲・性欲に囚われている中で、少なからぬ人々が時代のターニングポイントを予感して、性の本質的な役割に気付きつつあるということだろう。

 

 

【タオ・コード】
 「道(タオ)」 に隠された暗号(コード)が開示されている。
「Taoの真の意味を知る手がかりは借字だ」
 ・・・(中略)・・・ 
「老子は借字を応用して、1つの詩文に二重の意味を意図的に重ね合わせた。その1つは、当時の社会が認め得る表向きの内容。もうひとつは、あからさまに書いたならば当時の社会が受け入れ理解することができないとわかっていた内容だ」
 ・・・(中略)・・・ 
 では、その 「道」 の文字の裏に隠された、本来の文字は何なのだろうか?
 ・・・(中略)・・・ 
「これが本来の文字の 「擣(Tao)」 だ」 ・・・(中略)・・・ 
「このタオは「突く」 という意味であり、当時の中国における、いわゆるセックスを意味した隠語なのだ。「道」 をこの意味で読むと、老子書は世界的に信じられているその意味とはまったく違う意味に再生する」 (p.54-56)
 老子の語った文言が集成されたものは 『道徳経』 といわれているけれど、「道」 とペアをなす 「徳」 についても暗号が開示されている。
 この 「道」 と対となる秘められた暗号語があるのだ。
 それは 「徳」 である。
 「道」 は性を意味する一方で 「男性器」 をも意味する。それに対して 「女性器」 を意味する借字暗号語が 「徳」 なのだ。
 では、この本来の文字は何か?
 M老人は、やはりその文字を書いて私に示してくれた。
 その文字は 「竇(Tou)」 という文字だった。
 この文字は 「まるい穴」 という意味の文字で、女性器を意味する当時の隠語だったのだとM老人は言った。(p.79)
 現代の日本人が 「道徳」 と聞けば、ほとんど全ての人々が倫理観を意味するものと考えるであろうけれど、老子自体が 「道徳」 に 「男性器と女性器」 の意味を暗号として秘め置いていたなどと知ったら、絶句してしまうのではないだろうか?
 しかし、日本に仏教が渡来する以前の神道的世界観にあって、性は聖なるものだったのであり、性は倫理に反するものであるどころか、倫理を空無化するほどに根本的な役割を持つものだったのである。

 

 

【 “性” の “質と次元” 】
「性は人間の根本的な力だ。そのあり方、とらえ方によって人としてのあり方が決まる。その質と次元は、人としての質と次元を決定する。社会全体の性のあり方は、社会というもの全体を決定付ける支配力を握っている。あなた方の社会が欲の奴隷のような状態に陥っているのも、根本に性の問題が絡んでいる。常道(ツエンタオ)を知るまでは、人は苦しむ」 (p.35)
 性を淫らなものと捉え、倫理で封印しようとすれば、性はかえって欲望の対象となる。
 性を聖なるものと捉えるならば、性は人々を一体性の世界(常道)へ導くことになる。
 日本古来の言霊においても、性は、生であり正であり誠であり精であり聖である。淫との結びつきは無い。
 近代社会は物質的な成果を求めるけれど、一体性の保たれた社会は精神的・霊的な精華や聖化を常道へ至る過程と捉えている。

 

 

【精霊たちとの交流】
 著者が訪れて見た、タオの本質を開示された村の娘たちのことを、以下のように書いている。
 実際に、彼女たちの性質は、花のように無欲で、花のように人にやさしかった。彼女たちは自身の輝きが衰えたと感ずると、まず、精霊の働きを働けなくさせてしまった自身の心のあり方を振り返ろうとする。そして純粋無垢な花の精霊たちと交流することで精霊本来の心のあり方を振り返ろうとする。美しさのために化粧品を買いあさり、流行通りに着飾って自尊心を満足させている文明社会の女性と比べ、どちらが質の高い美しさであるかは、彼女たちの存在そのものがそれを証明していた。(p.44)
 花の精霊たちと交流できる一体性の根源こそが “性” なのである。
 どういうことかというと、性腺ホルモンを司る基底の第1チャクラと言われるムラダーラ・チャクラで生み出されたエネルギーがブースターとなってスシュムナー管(「タオの幹))を駆け上がり、第2のスヴァジスターナ・チャクラから第7のサハスラ・チャクラまでを覚醒させ、人間を聖化・霊化して行く。その過程で、人は自然界の精霊たちと交流することができるようになるのである。
 但し、この村は、チャクラのテクニカルな覚醒法を伝承している村と言うのではない。村で行われる “祭り” が、村人たちの意識の一体化を生み、花の精霊たちとも交流もできる聖化・霊化した人間を作り、あらゆる問題・困難を未然のうち防ぐことのできる安定した村社会(共同体)を築いているのである。

 

 

【祭政一致】
 彼らの祭りは、最高の道徳であると同時に体を魂と共に躍動させる理想的な体育であり、全身で味わう音楽でもある。また、はるかな昔からの、祖先の営みと智恵の本質を学ぶ生きた歴史の勉強でもある。さらには、一つの社会を調和統一させることを政治というのだとしたら、この祭りには話し合いなど皆無であるにもかかわらず、人々を最高レベルの調和統一へと導く超言語的政治とも言える。実際、この村には、政治などはなく、この祭りが、村全体を統一させる役割を果たしている。(p.153-154)
 村程度の規模の共同体なら、この記述にあるような完璧な祭政一致は容易であろう。
 しかし、そう遠くない未来においては、地球規模でこの祭政一致が行われるようになってゆくはずである。

 

 

【M老人が語ったこと】
「私は短いあいだであったが現代の文明社会を体験している。そこには、私たちの村にはない不幸があることも知っている。そしてそれがどこから来るものであるかも、私にはわかる。
 性は命の原点であるだけでなく、宇宙自体の脈動だ。この脈動通りにそれが動くとき、性は決して欲望とはならない。宇宙のリズムからはずれることによってのみ、それは欲望に変わる。 ・・・(中略)・・・ 」 (p.102)
 性をとらえる “質と次元” において、現代社会は根本的な過ちを犯している。
 だから、現代社会は “欲” が社会の中心原理になってしまっているのである。