《前編》 より

 

 

【人間の進歩】
 正しさを他に求めれば、その人の欠点や不正ばかりが気になって、その人が許せなくなる。自分に求めたとしても、ストレスがたまる。
 教師の子供はなぜか問題を抱えた子が多いと言われる。これは、善悪で我が子を見てしまう結果である。真に豊かな心の子供を育てることのできる親や教師は、例外なく、善悪を超えた観点で子供を見るものだ。
 老子はこれを「善の善なるを知れば、これ不善のみ」と言う。善という善のすべては相対次元の主観にすぎない。自然界には善悪は存在しない。善を推し進めることは、主観を強めることに他ならない。人間の進歩は、そうした相対次元をどれだけ超えるかにある。人間の可能性は、それをどれだけ超えられるかにある。(p.42)
 相対次元(二元性の世界)を超えるのが人間の進歩なのであるけれど、そのような学習過程は、ほんの少し前までは、禅門の中で細々と維持されてきただけだろう。「隻手の公案」という言葉を聞いたことがあるだろうけれど、これはつまり、相対次元を超えるための公案なのである。しかし、近年は、スピリチュアル系の著作や映画によって、多くの人々が、二元性を超えることの必要性を学びつつ、また、地球を取り巻く時空は、既に多次元領域に入っていることすら理解しているだろう。
 ところが、今でもそんなことすら分かっていない人々が多く、この人々が地球全体の意識進化の足を引っ張っているから、「ちょっとは理解してよ」という思いで書いておこう。

 

 

【二元性の轍を出る】
 善悪という二元論の観念を保持したまま生きている人は、容易に他者を裁きたがる。「裁きの神」は、相手を支配する上で「裁き」の概念が有効であることを見抜いた者が創出した“神の概念”である。つまり奸智の産物である。人類は2000年間、この宗教的神話による詐術によって騙されてきたのである。
 本当の神は、裁くことなど決してない。本当の神は、善と悪、聖と邪、裁く裁かない、という二元性の次元になど立脚していないからである。
    《参照》   『霊止乃道』 内海康満 (たま出版) 《前編》
              【極意】
    《参照》   『元つ神に「光ひとつ上ぐる」仕組み』 白山大地 (ヒカルランド)
              【火水伝文の主旨:“真釣り”】
    《参照》   『地球維新 天声会議』 白峰監修 (明窓出版)
              【アセンションのテーマ】

 スピリチュアル系の著作を読むような意識の進化した人々にとって、こんなのは余りにも分かりきったことなのであるけれど、世の中の大勢はそうではないのである。
 ついでに書いておけば、大抵の人々は、「裁き」に関わる「裁判制度は、社会正義を保つ上で好ましい社会制度である」と思っている。現実世界で用いられている「正義」がいかなるものか、その実態を知らず、また考えることもない。(本当に三権分立しているなら、裁判制度も有効ではあるだろうけれど、実際にところは三権分立など有名無実でありほぼ幻想以下と云い得るような状態である)
 高度に進化した社会には、裁判所、警察署、軍隊、そして宗教などは存在しない。地球上においてこれらの制度を創出し維持しているのは、実に「闇の支配者」といわれる連中なのである。
    《参照》   『神とひとつになること』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
              【第6の幻想(裁き)から抜け出た世界】

 

 

【天に通じる生き方は、心と体の純度で決まる】
 大宇宙は人間を常に導き続けている。その導きを受容する能力が、感性(見えない領域への感知力)である。
 この感性が狂うと、欲や対立の次元に引きこまれ、歩むべき道を踏みはずす。それがいわゆる不運である。・・・中略・・・。感性を高めるには、心と体をピュアにすることだ。これも、純粋に快に導かれれば自ずとそうなる。食べ物も、真に美味しいと感じるものを食べれば、血液がきれいになる。血液が濁っていれば感性も濁る。体の使い方も同様だ。
 しかし、心が濁っている人間は、血液を濁らせる食品を欲しがり、血液を純化させない体の使い方をしているものだ。なぜならば、快の領域を知らず、満たされないがゆえに、欲が生れ、欲に導かれて食するからだ。
 欲に覆われた人間が、真の快を知るには、体から入るのが一番だ。体こそは、天地を知るセンサーであり、受信機だ。その感度を呼び起こせば、天地の導きに順うことができるようになる。 (p.51)
 「ドロドロとした人生だなぁ~」と感じているなら、思い切って断食に挑戦してみるという手もある。
 人類が等しく高い次元に上昇するなら、肉体の純度を下げてしまう食事という作法を必要としなくなる。食事に依らずにエネルギーを取りこむことが出来さえすれば、純度はそれで容易に維持できるからである。進化した社会では不食が普通であり、故に排便という行為もなくなる。
 地上におけるアイドルスターは、隠れておトイレに行ったりするんだろうけど、今この地球上には、本当に全然トイレに行かないスターピープルが結構いるのである。(不食を選択しないスターピープルの方が多いらしいけど・・・)
    《参照》   『バシャール スドウゲンキ』 須藤元気・ダリル・アンカ (VOICE) 《前編》
              【ETとの接触と食の問題】

 

 

【「好き」という受容モード】
 受け入れるとは、存在への感謝であり、自己と言う存在を提供する宇宙への感謝である。「私は私を受け入れる」と心の中で言うだけでも、「私は私が好き」でもいい。それも無理なら、「なるようにしかならないよ」と自分に言い聞かせるだけでもいい。要は、戦いモードから受容モードに切り替えるのだ。
 まず、自分が大好きと思うこと、これが受容モードに入るための第一の関門である。真に自己を受け入れれば、自己からすべてに愛は及ぶ。
 「好き」とは受容エネルギーの発生そのものであり、老子の言う「谷」の力そのものである。
 人は、谷の精に導かれる時、谷のようにすべてに豊かさを与え、谷のようにすべてが流れ、谷のようにすべてが成就する。 (p.57)
 「自己愛」と言うと、人によって意味する処が同じではないだろうから、「自己受容」=「自己愛」と表現すると誤解が生ずる可能性がある。「自己愛」を「ボクちゃん、なにやってもOK」という次元で理解しているなら、まるで論外。
「自己受容」とは、「どんな自分でもいいから、自分で自分を受け入れる(自分で自分を無条件の愛で包む)」ということ。整然とした意識ワークである。
    《参照》   『空 舞い降りた神秘の暗号』 Mana (三楽舎)
              【究極の闇を祝福する: 最高の無条件の愛】

 チャンちゃんの所へ「ET36」が届いた翌日、ご機嫌な気分で「ET36」のお家(ケース)を買いに100円ショップに行ったら、BGMに流れていた 「キミのことが好き~~~だよ」 という歌詞が頭にこびりついて離れなくなってしまった。その歌をYouTubeで再現すべく、家に帰ってから 歌詞で検索 したら、いきものがかりの『ラブソングはとまらないよ』 という曲であることが分かった。冒頭の歌詞の「キミ」は「自分のこと」だと思って、この部分だけ何度も何度も繰り返し歌ったらいい。幸せ感が湧き上がってくるだろう。
 砥鹿神社で、おばあちゃんに背負われた赤ちゃんが振り向きつつチャンちゃんを見つめていたから、声を出さずに「キミのことが好き~~~だよ」って歌ったら、赤ちゃんは「ニカッ」っと笑った。今、この時代に生まれてくる赤ちゃんたちは、大抵、進化したDNAを持つスターピープルである。おバカでオタンチンでドン臭いコッテコテ意識のオッサンやオバサンたちとは大違い。

 

 

【老子のエッセンス】
 なお、上記の書き出しの中に、「谷」という言葉が出てくるけれど、最初に書き出しておいた「玄牝」という言葉をも含んだ、一文が老子にある。
 「谷神を玄牝という」
 多分、これが老子のエッセンスである。
 読んだのがあまりにも昔なので、確かな記憶ではないけれど、五井昌久先生の『老氏講義』にもそう書かれていたと記憶している。

 

 

【絶対幸福をもたらす意識状態】
 老子が女と言う時、男性よりも自然の導きに従いやすい女性的受容性を意味している。
 創造は、一見、能動的行為に見える。しかし、真の能動性は受容性によってのみ生まれる。
 ・・・中略・・・。
 人間個々の未来というものも、受容の原理で形作られる。実現していい意識次元に至った時、それ相応のビジョンがやってくる。やってきたビジョンは、必ず実現する。無理に描いたビジョンは実現しないか、したとしたらその反作用を生み出す。絶対幸福に必要なのは、いかなるビジョンを受け取れる心にあるかという、意識状態、意識次元にある。(p.62)
 この記述は、「自ら計らわず」という、欧米化される以前の、古風な本来的日本人が有していた生き方を記述していると言えるけれど、日本人は、作為的に世界の中心になろうとしなくとも、「自ずからなる」ように、世界の中心に立っていることだろう。
    《参照》   『超意識 あなたの願いを叶える力』 坂本政道 (ダイヤモンド社) 《後編》
              【 自ずから「なる」 】
              【日本の立ち位置】
 なんたって、その為にこそ、日本にはスターシードがたくさんいるんだろうから・・・・。
 「自分はスターシードなんかじゃない」と思っているなら、その意識の持ち方は正しくありません。せめて“受容”する意識状態で下記のリンクを読んでみる必要はあります。未来のビジョンを受け入れる意識状態になれる人がスターシードなんです。今でも眠り続けているスターシードが多すぎるそうです。とっとと起きてください。
    《参照》   『2015年に来る真の危機から脱出せよ!』 中丸薫 (青志社) 《後編》
              【スターシードが多く集う日本】

 

 

【極めれば直線から円へ】
 「ねばならない」はいかにも固く強そうに見え、進歩するかに見える。だが、固い物は何であれ、もろいものだ。柳の枝が折れないように、強くは見えない柔らかさの中に、宇宙大の強さがある。だから何事も、極めれば直線から円へと至る。これは、自然の理である。
 武道の世界でも、真に強い武道家は必ず円形の動きを帯びてきて、柔らかく優雅で女性的になる。これを「柔よく剛を制す」と言う。(p.80)
   《参照》  『ガイアの森』 綾杉るな (ヒカルランド) 《前編》
            【合気道、ラセン、踊り】

 直線から円への過程に曲線があるけれど、欧米の建築や庭園に見られる幾何学的な直線の美学は、日本人の自然を用いた曲線の美学から見ると、どうしたって逸脱の美学である。
   《参照》  『かたち探検隊』 小川泰 (岩波書店)
              【シンメトリーの呪縛を受けていない日本人の役割】

 

 

【天門開闔(てんもんかいこう)】
 世に天才は、それがどんな分野の天才であろうと、例外なくTaoの意識領域を数多く体験している。Taoは、時間や空間と言う相対界を超えた領域であり、この領域に入るだけで人が至高のエクスタシーに出会うのは、その瞬間、人間の意識が三次元的制約から解放されるからだろう。
 この領域には、制限というものがない。天才がこの領域を多く経験するというよりは、人は、この領域によって天才となるのだ。老子はこれを「天門開闔して、能く雌と為らんか。明日にして四達し、能く無知ならんか」と言っている。「天門開闔」とは、女性器を開いたり閉じたりする意味で、Taoの領域の感覚を性の恍惚感にたとえた表現だ(本当はただのたとえではない)。その領域に入れば、四方八方の世界と一つになり、すべてを感得することができる。「無知」とは、老子独特の逆説表現で、常人の知を超えた知の領域を示している。(p.97)
 全宇宙包括領域であるTaoの領域に入ったことがなくても、意識の使い方しだいで、誰でも全宇宙を包括する側へステップを踏み出すことはできる。最低限、重苦しい三次元の制約を超えようとする程度の意識の自在性がありさえすればいい。なんらかの瞑想をしている人々はそれを実践しているだろう。
 封印された三次元意識のまま、地球生命系と言う領域内から一歩も出ることのできない人にとって、老子のTao『タオ』は、依然として人文的思想書のジャンルに留まるのだろう。そのような人々は、おそらく現在の地球が次元上昇中であることすら気付いていないのである。
    《参照》   シェルダン・ナイドルニュース 2014年9月9日

 

 

  千賀一生

     『タオ・コード』

     『タオの法則』

     『ガイアの法則[Ⅱ]』

     『ガイアの法則』

 

<了>