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 2012年年末のイベントを非常に危機的にとらえていた著作だけれど、“霊主体従”に則した生き方を説いていることや、二元性の囚われから脱して、「中真(一元性)の認識」を基調とした生き方を説いている内容は、今でも十分参考になる。2009年1月初版。

 

【神秘の骨「仙骨」】
 英語では、「sacred bone」「sacrum」などと言うが、これは「secret(秘密)」という言葉と語源が同じで、「聖域」「聖なるもの」なるものという意味のラテン語から来ている。触ってはいけない秘密の場所、聖なる骨ということである。・・・中略・・・。人間は両手両足を切断しても、頭蓋骨を半分とても、大脳がなくても生きていける。
 ところが、仙骨を取られてしまうと、人間は、小鳥が巣箱を失うと帰れないように、魂も帰る場所を失い、死ぬのである。
 そのことを私は霊的に分かっていたので、セミナーで話したことがあった。(p.46)
 セミナー後に、参加していた医学関係者から、「事故で骨盤がバラバラになった患者から仙骨の一部を取ったらすぐに死んでしまった」、とか、「仙骨の部分に床ズレができると、患者の死が近いことを経験上知っている」という話を聞かされたという。仙骨は、近代医学が触れることのできない部分らしい。
著者は、この仙骨のずれを矯正することで、様々な病気を治してしまうらしい。

 

 

【仙骨:中真感覚は「ゼロ」である】
 仙骨という秘密の扉を開けて中に一歩足を踏み入れると、そこは時間のないゼロの世界なのだ。
 何やらわけのわからない話をしているように聞こえるかもしれないが、これまでの話から、少なくとも仙骨が目に見えない世界とつながっていることを感じ取ってもらえたのではないだろうか。(p.69)

 ゼロといっても何もないということではなく、自分自身の中にすべてを内包しつつ、ゼロの状態にあるということである。
 ゼロを地点でいうと、右にも左にも、上にも下にも、前にも後ろにも傾いていないところである。時間軸で言うと、未来でも過去でもなく、つねに現在である。
 それが中真感覚の中真ということである。 (p.200-201)
 「ゼロの世界」やこれに類する表現は、スピリチュアルな著作の中でよく目にする。表現の仕方は違えど、同じことを言っているのだろう。
    《参照》   『22を超えてゆけ』 辻麻里子 (ナチュラルスピリット)
              【ゼロポイント】
    《参照》   『180度の大激変』 船井幸雄 (徳間書店)
              【ホ・オポノポノ】 【ゼロの状態で全体を生かす】

 

 

【人生の目的】
 ここではっきり言っておかなければならない。
 ―― この世の幸福を説く者は、すべてまやかしである。
 なぜなら、人は幸福になるために生きているわけではないからだ。(p.13)
 じゃあ、何のため?
 法則とは神の顕れであり、神そのものである。ゆえに、法則を理解すること、法則を解し法則の存在を知ることは、神の存在を識ることと同じである。
 そこに人生の真実がある。人生の目的とは、法則を理解すること、神を識ることにある。それは自分自身が神であることを識るということでもある。
 よって、「人生は神を識るためにある」「人間は自分自身が神であることを識るために生きている」ということになる。(p.120-121)
 目的はまさにそこ。
 一挙にそこに到達できなくても、わずかであっても「意識の進化」を遂げるべき。
 人は、この世に遊びに来ているわけではない。たとえ長生きをしても、魂レベルの成長がなければ無意味な人生になってしまう。なぜなら、霊的学びのない人生を送れば、次の人生のスタートラインは、今生のスタートラインと同じになるからだ。(p.195)
 アセンション関連の著作を読んできた人は、かなり「意識の進化」を達成してきただろう。
 「意識の進化」とは、体主霊従から霊主体従へと移行(=進化)すること。

 

 

【霊止乃道】
 「霊主体従」という言葉があるが、霊を主体として、肉体を従として生きる魂が霊止であると言っていい。
 この「霊止」が進むべき道は、大宇宙の中真に確実につながっていく大いなる道である。(p.142)

 特別なことを行じるでもなく、外なる神に依存するでもなく、ただ自己の中にある神、中真の意識の導くままに生きる。こうして人生を歩んでいくのが「霊止乃道」である。(p.143)

 

 

【神なる意識への成長を妨げるもの】
 神なる意識の存在を知るのが人生の目的である。そのために「理解」という道具があるのだが、想念が理解を妨げるために、真我に到達するような深い理解を得るのが難しいのである。(p.128)
 上記にある「想念」について、
 人類の支配者は、「想念が理解を妨げる」という法則を識っており、スポーツや映像などを使って人々が想念を出すように仕向け、「理解」から遠ざけている。そして奴隷化しているのである。それに気付かなければならない。(p.134)
 つまり、3S(Sports, Screen, Sex)による、人類の愚民化である。勝っただの、負けただの、カッコイイだの、美味しいだの、凄いだのと、怖いだのとばかり思わせておいて、魂の進化に関することは全く意識させないのである。
 そして、「神は、外部にあり、人間には到達できないもの」という観念を植え付けている従来の宗教も、人類の支配者が生み出したものである。
 私は宗教が大嫌いである。なぜなら、人間の本質を隠ぺいしているからだ。人間を神の下に位置づけてしまっている。
 はっきり言おう。
 あなたはだまされているのだ。
 ・・・中略・・・
 神というものを人間の上に置いてあがめ奉っている限り、人間は内なる神である中真感覚を発露させることができず、神を体現することもできないのだ。(p.205)
    《参照》   『アシュタール×ひふみ神示』 宇咲愛 (ヒカルランド) 《前編》
              【あなたが創造者であることを忘れないように】

 

 

【神とは「申し示すもの」なり】
 私はよく、「神とは、申し、示すものである」と言う。・・・中略・・・。「神」という漢字を構成している「申」「示」という字が神の働きの一部を顕しているのである。
 また、「申し示す」の送り仮名である「し」「す」は「祀素」と顕す。すなわち、「素を奉る」ということである。ゆえに、「申し示すから、素を奉れよ」と、生きた言霊が示しているのである。(p.121)
 「素」は、先ほど出てきた「ゼロ」に近い漢字表現。
 素を奉れば、中真(ゼロポイント)の意識に住して、霊止乃道を歩むことができるだろう。

 

 

【人助けの実相】
 人助けをしていると言っても、善意でやっている人と、前世の業でさせられている人があると言う。
 神のような高邁な精神で人助けをしている魂は、ふくよかな顔になり、幸せそうに見える。ところが、痩せこけて貧相な顔をし、一生懸命やっているような人は業でやらされていることが多いのである。(p.147)
 社会全体を少しでも良くしようと思って人助けをしているのならいい。しかし、人に良く思われたいからという思いでやっているのなら「中真」から外れている。

 

 

【前世は顔に】
 「前世というものはあるのでしょうか」・・・中略・・・、これに対して私は、
 「鏡で自分の顔を見ればわかりますよ」
 と答えることが多い。そうすると、たいていの人は煙に巻かれたような顔をする。
 だが、事実、人の顔には前世の記憶というものが集約されて顕れているのである。特に目とその周り、蝶形骨の辺りにその人が前世で理解したものが顕れる。
 人間に前世がないとしたら、人の顔はすべて同じになるはずである。
 サンマはみんな同じ顔をしている。何万匹捕っても全部同じである。これは一回限りの生だから。(p.81)
 体型や精神性や人格がみな違うのも前世があることの証拠。

 

 

【中真(神)の世界にないもの】
 裁判官の話が出たついでに言っておくが、裁判官はもとより、弁護士や警察官などは、本来、世の中にとっては不要のものである。なぜなら、裁く者が裁かれる者を生み、法律を盾に動く者が法律を武器にする者を生み、取り締まる者が犯罪というものを生むからである。こういう輩が力を振るう世の中は、中真(神)の世界にはないのである。(p.218)
 軍隊や警察が存在しない世界を実現するには、マネーフリー社会を実現してしまえばいいのだけれど、現在の地球を支配している「闇の支配者」たちは、貨幣の発行権限を持つ貨幣経済の支配者たちでもある。だから地球上の混迷は深まるばかり。
 特にアメリカにおいては、刑務所の増設と警察権力の横暴化は一層進んでいる。ところが一方で、NERASAの実施に向けて現在進行中である。ミシガン州議会が米国での”憲法制定会議”を要求する34番目の州になる決議をしたことで、アメリカ国民は「闇の支配者」達の機関であるFRBによるマイナスを、すべて拒否できるようになった(!)のである。現在のアメリカは暗黒化と光明化が同時進行中である。
 NESARAについて分かっていない方は、下記のリンクに紐付くリンクを全部辿ってください。
    《参照》   『宇宙人の伝言』 田村珠芳 (TO文庫) 《前編》
              【銀河連邦からのメッセージ】

 

 

【中真感覚から来る直感】
 中真感覚から来る直感は、一般に言うインスピレーションやひらめきなどとは違うものである。
 中真感覚から来る本当の直感は、「安心」という、五感に属さないものを伴う。・・・中略・・・。この直感に従っていると、いつも大安心なのである。(p.239)
 著者がピラミッドの内部に入ろうとした時、中真感覚が「安心」とは真反対の感覚がもたらされたので、入るのを止めたことが記述されている。
 ついでに書いておくなら、ピラミッドは地球外知的生命体が関与してできたものであり、ある惑星との共鳴装置になっているそうである。

 

 

【仙骨を意識して歩く】
 普段の生活の中で特に仙骨に意識を向けてほしいのは、歩くときである。歩くことそのものも仙骨のバイブレーションを高めることになるので、とてもいいことなのだが、その際に、仙骨に意識を向け、仙骨が前に進むようにするとよい。「仙骨に宿っている魂が主人となって道を歩いている」という感じがいいだろう。(p.240)
 肉体は意識の向け方によって大きな影響を受けるものなのだけれど、異次元との接点である仙骨へ向けるなら、その効果はより一層大きいのかもしれない。

 

 

【極意】
 針ヶ谷夕雲の意識が一元の世界、すなわち中真の世界にまで達したことは、だれも目を向けない次のようなエピソードにも顕れている。
 夕雲の弟子は一度も稽古をしてもらったことがないという。弟子が稽古を懇願しても、「お前は遊べ」と言って、夕雲は女郎買を勧めるばかりなのである。
 このエピソードを聞いて、「剣の極意に達した人物とは思われない」と眉をひそめる人もいるかもしれないが、実は極意に達していたからこそ、夕雲は弟子に剣の稽古をつけず、女郎買いを進めたのである。
 すなわち夕雲は、命をやりとりする真剣試合を通して、勝ち負けという二元の世界を超えたところに到達し、それによって人間が陰陽という二元の世界に縛られていることも識ったのである。そして、一元の世界に人間の本体である「意識」が存在することを、陰(女性)と陽(男性)の交わりを通して弟子に伝えようとしたのである。(p.258-259)
 日本の芸事では、その上達段階を「守・破・離」と表現するけれど、最後の「離」は、畢竟するに、二元性の世界から「離」れて「一元性」の世界に至る認識を言うのだろう。
 『山月記』の作者として有名な中島敦の作品に、『名人伝』 というのがあるけれど、その作品でも「不射の射」を表現している。