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 エッセイ集である。壁や境界と言った概念を巡って語られていた序盤のうちは、記述の世界に入り込めていたけれど、半日のインターバルをおいて読んだ中盤以降は殆ど感受できなくなってしまった。読み手のメンタルに8割の原因は有るだろう。仕事柄であるにせよ世界を旅している過程は、それ自体が発想のスプリングボードになるから、旅作家のエッセイに少しだけ似た趣がある。後半はやや知性偏重ぎみである。

 

 

【境界】
 今日、パリをはじめとする都市で、あるエリアを指すために使われている「クォーター」(四分の一)という言葉は、イェルサレム旧市街の小さなエリアが三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)地区とアルメニア人地区の計4地区に住み分けられていたことに由来する。信仰を異にする者たちが、肩を寄せ合って生き、欠乏の中に豊饒を創り出す。このような智慧の中に、都市の起源がある。(p.42)
 都市という壁(境界)は、欠乏を強要する制限でありながら、それゆえにこそ豊饒を生む場となっている。
 都市という閉じた境界内をさらにクォーターにまで境界化するイェルサレムのそのありかたは、今日まで世界を席巻してきた西洋文明的世界観による「欠乏と豊饒」を濃縮して象徴していたのかもしれない。
 日本語において、境界と教会が同音の言霊であるというのもまた意味深である。
 壁は、時には、至福の福音でさえありうる。地球の薄い大気の層は、宇宙空間の過酷な環境から私たちをやさしく隔離する一つの壁である。神は宇宙の全てを見給うが、人間は、視野という壁の外のものを見ることができない。この限界も、有限を生きる人間にとっては、実は一つの福音であろう。
 ・・・(中略)・・・ 都市の壁は、もはやそれについてほとんど考えることがないくらい、都市生活者にとって当たり前の、ごく実際的な存在であるが、そこに自分にとっての世界の終りがあるかもしれないと思うとき、私は不意に厳粛な気分に撃たれる。(p.30)
 境界(壁)とは、突き詰めていえば、絶対と相対を分かつものである。バカの壁といったり、認識の壁(限界)と言ったりするけれど、畢竟するに、人間は相対の世界で学ぶことを宿命とする存在であるが故に、その壁を完全に超越することは決してできない。

 

 

【視線】
 電車に乗っていて、向かい側のドアに立つ人に心のフォーカスが合い、その人もこっちを見て視線を共有する。やがて電車が動き出し、また過ぎ去っていく。一瞬で終わると判っているからこそ、安心して視線を合わせることができるのである。あのような瞬間が訪れて、そして消えて行ってしまうことこそが、都市の魅力である。(p.52)
 流れの中にある束の間の視線の共有。都市では確かにこの様なことが起こり易い。しかしこれは本当に魅力であろうか? 永久(とわ)に至れぬことを知っている人を癒す、束の間の穴埋め的救済であるように思えてしまう。故ないことではない。以下のようにも書かれているのである。
 死んだ後も、お互いを見つめ、視線を合わせ、魂を探り合う。そんなやりとりができる場所が欲しい。・・・(中略)・・・。普段は合理主義者である私に、何がそのようなことを思わせたのか分からない。チリカウアの地の霊に私の心が感作したのだろう。(p.54-55)
 職業学者である茂木さんの著作の中でこんな記述を読むのは、意外ではないけれど、始めてである。
 恋愛系の歌謡曲の中にでてきそうな「瞳を探り合う」ではなく、「視線を合わせ、魂を探り合う」と表現しているのだから、もう完全にあっちの世界に通じたスピリチュアリストの語りみたいである。

 

 

【旅することの恵み・異なることの恵み】
 サンゴ礁の海にもぐる人が、目の前を泳ぐ魚になることができないように、旅する人は、その土地の人になることはできない。私には、子供の頃から見渡す限りのオリーヴ畑の中で育ってきた人の気持ちは、絶対にわからない。しかし、だからこそ、そのような他者との出会いがもたらす気づきがある。その事に思いを致す時、自分がこれまでの人生で受けてきた、そしてこれからも享受するであろう、旅することの恵みに目を開かされる。
 絶対に超えることのできない境界に阻まれているからこそ、私たちの生に恵みをもたらす他者との出会いがある。私たちは、他者と同質化する必要はない。異なるまま、行き交えばよいのである。(p.67)
 何度か異国を歩いたことがある人なら、同じ思いをしているはずである。
   《参照》   『世界は「使われなかった人生」であふれている』 沢木耕太郎 暮しの手帳
             【旅、読書、映画】

 他者との同質化を希求するのはちょっと大人げない未熟な魂によるダダ捏ねみたいなものである。異なることから得られるものに価値を見いだせるようになったなら、相対の世界で生きる上での豊饒が約束される。

 

 

【廣松渉著『<近代の超克>論』】
 哲学者の広松渉さんにお目にかかった時、その春風がそよりと吹くお人柄に魅了された。著書の難解さからは想像もできないようなその人物から差す日差しのやわらかさに、やはり人間というものは会ってみないとわかならいものだと悟った。(p.241)
 広松渉という名前を読んで、エピスメーテ叢書の『<近代の超克>論』という著作を思い出したから、懐かしいと思いつつ書き出しておいた。学生時代、先輩たちの話についてゆくために、この本は絶対に必読書と思って読んでいた本である。
 でも、吉田宏哲さんとの共著である『仏教と事的世界観』の方が、チャンちゃんにとっては遥かに印象的な本だった。廣松さんではなく密教をベースにした吉田さんの記述に、思わず “切れる!(超絶に鋭利な知性)” と震撼していたものである。

 

 

【「今、ここ」の設い(しつらい)】
 不可視なものを思うということは、目に映るものをないがしろにすることを意味するのではない。「今、ここ」から「すべての場所」への精神運動は、むしろ、「今、ここ」の設いに対するきめ細やかな配慮によって支えられる。(p.243)
 この本の中に、「設い」という表現が3か所くらいでてきただろうか。「しつらい」とひらがな記述されていた個所もあった。意味とすれば、「設けととのえること、備え、設備」などに置き換えればいいのだけれど、「しつらい」というとチャンちゃんは純然たる和風というか和室風の単語表現に思えてしまうから、この単語に出会うたびに文脈が揺れるような違和感をもってしまった。
 「今、ここ(Now here)」に関して、この本ではエッセイとしての記述に終始しているけれど、
 Now here は nowhere だから、それは同時(逆説的)に「全ての場所」へと通ずるのである。
 補足なら以下のリンクで。
   《参照》   『日本人よ、侍スピリットでよみがえれ!』 竹村健一・鍋島健士 (致知出版) 
             【 治療と 「葉隠の死生観」 】

 

<了>