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 古書店で見つけたこの著作。著者が筒井康隆だったからこそ読んでみたのだけれど、結果はハズレ。笑やユーモアに関する“アホさ加減”が面白く書かれているのかと思ったけれど、失敗だとか戦争だとかのマイナス事象に向かう人間の心理や営為を様々に綴った内容が殆どで、読んでいて暗鬱になってしまった。2010年2月初版。

 

【二匹目のドジョウ狙い】
 『バカの壁』がベストセラーになったので二匹目の泥鰌を狙ったのであろうと言われれば、そうだとしか言いようがなく、「二匹目の泥鰌を狙うアホ」という項目を立てて自らを槍玉にあげ、贖罪するしかない。
 しかし言いわけをさせていただくならば、二匹目の泥鰌必ずしもアホな計画ではない。俗に「泥鰌は二匹目までいる」とか「三匹目までいる」とか言われてもいる。(p.127)
 言いわけがどうであれ、この本は初版からわずか1カ月で4刷になっているけれど、実質的には二匹目にはなっていないだろう。部数が伸びたのは、多分、著者名とタイトルの組み合わせに期待した人が多かったからで、期待以上だったという人はほとんどいなかっただろう(と思う)。
 特に、チャンちゃんのような、筒井さんの小説を楽しく読んできた“かつての若者たち”ほど、ガッカリしたはずである。
    《参照》   『臭脳』 鳥居鎮夫 (イーハトーブフロンティア)
              【ラベンダー】

 

 

【二匹目狙いの成功例】
 『国家の品格』を越す三百万部を突破させた『女性の品格』は、柳の下の二匹目の泥鰌が一匹目より大きかった好例だが、そのあとに出た品格本は4年間で百数十冊を数えた。(p.148)
 二匹目狙いの「品格」本の多さにびっくりするけれど、出版業界って意外と独創的なアイデアのない人が多いことを示しているのだろう。
 ついでながら、下記リンクは『女性の品格』の著者による別の良書である。
    《参照》   『英語以前に身に付けたいこと』 坂東眞理子 (日文新書)

 

 

【京都人のアホぶり】
 京都の人は、相手がいやがるとわかっていながら平気でいやなことを言う、というのはよく聞くところである。「ずけずけと」という形容を冠されることが多い。
 これは京都の人全般に見られることであるが故に、もはや個人的な異常とは言えず、社会的、歴史的な背景を考慮しなければならないだろう。(p.35-36)
    《参照》   『京都の秘密 経営の絶対ヒント 深見所長講演録5』 (菱研)
              【イケズ京都の由来】
 強烈な排他意識を持ちながらも、観光都市だから、客を大切にしなければならぬ手前、それを表には出せず、屈折した感情が狡猾さにもなるし、精神的均衡をとろうとして、つい嫌味や「いけず」や面と向かっての悪口になってしまうのである。(p.36-37)
    《参照》   『日本で知った「幸せ」の値段』 にしゃんた (講談社)
              【京都人のおもてなし】

 

 

【“読み間違いアホ”の帝王】
 読み間違いでは、なんといっても我が国の総理であった麻生太郎の例をあげなければなるまい。
 「過去の政府談話を踏襲する」の「とうしゅう」を4回も「ふしゅう」といった (p.64)
 他に、「窮状」を「しゅうじょう」、「見地」を「かんか」(?)、「頻繁」を「はんざつ」と読んだそうである。
 何度も指摘されている「未曾有」を「みぞうゆう」と読む間違いを、ある会議では正しく読んだというので会議場がどよめいたというのもお笑いである。 (p.65)
 スパイ教育だけ受けて、日本語の読み方など全然習わなかったのだろう。
    《参照》   『人類への警告⑥ 真の支配者』 高山長房 《前編》
              【ポール・ブルームと麻生太郎】

 

 

【アホな死】
 宗教的恍惚感などはエロスそのものだから、これがタナトスに結びつくとたちまち集団自殺、殉教に結びついてしまう。特に殉教者などは、できるだけ苦痛が多ければ多いほど確実に天国へ行けるという信念を持っているから、苦痛の長引く方法を好んだりもする。
 さっきの三島由紀夫の自決やこのような殉教までをもアホな死と言うと立腹、激怒といった反応が返ってくるかもしれないが、宗教に無関心で、タナトス志向など自分にはないと思い込んでいる現代の一般大衆にとっては、これらすべて、やはりアホな死なのである。(p.95-96)
 一般大衆の総体である日本の行く末を憂えた三島由紀夫の自決が、一般大衆によってアホな死であると思われてしまうのは、予想できることではあるけれど、強烈に脱力的というか空しいことである。
 それぞれの立ち位置によってアホだと思うことは異なってくるのだから、誰がどう思おうと仕方ないことだけれど、“精神が及んでいる範囲の違い”を理解できない人々ほど、容易に「アホ」の一言で片付けてしまう。そんなことにすら思いが及ばない人、即ち身の回り程度にしか意識の及ばない抽象度の低い人は、せめて沈黙を通す程度の慎みを持ってほしいものであるけれど、これも空しい希求というものである。 と、分かっていながら、こんなはてのない堂々巡りを書いているチャンちゃんは、相当に重症のアホってもんですよね。

 

 

【アホな経営】
 いちばんいけないのは家族・親戚・友人ばかりでやる飲食店の経営。仲間内で飲み食いして潰れてしまうことは眼に見えているのである。(p.132)
 ねずみ講式の販路拡大形態ビジネスも、家族・親戚・友人関係による共食いビジネスみたいなものだろう。成功するわけがない。

 

 

【アホな戦争】
 1969年のワールドカップ予選で、エルサルバドルはホンジュラスに負けた。これを悲観して、熱狂的なファンだったエルサルバドルの女性が、なんとピストル自殺をしてしまった。この女性の葬式に代表選手や、はては大統領までが駆け付けた。これでナショナリズムが高まり、ついには外交関係断絶という事態となり、とうとう戦争が始まった。・・・中略・・・、百時間余りで終結したものの、それでも数千人の死者を出している。(p.161)
 スポーツの試合が、心理的なガス抜きではなくナショナリズムの高揚になるのは、根底で貧富の格差を創出しながら3S政策で下層民をコントロールしようとする「闇の支配者」どもが、正に最も欲する事態である。
 エルサルバドルとホンジュラスの場合も、純然たるスポーツ起因と思うのは、“幼稚過ぎ”か“アホ”かだろう。中南米は何時だって、麻薬という汚れたビッグビジネスの利権絡みである。
 世界中で行われてきた、実際の戦争などと言うものは、ロスチャイルドを筆頭とする国際金融資本家たちによるヤラセ誘導による勃発ばかりだったのだから、戦争が東西両陣営による対立と思い込んできた知識人や大衆こそが“大アホ”だったわけである。
    《参照》   『リチャード・コシミズの未来の歴史教科書』 リチャード・コシミズ (成甲書房) 《中編》
              【「私生児」戦略】

 しかし、かつて“大アホ”だった知識人やチャンちゃんを含む大衆の多くは、インターネットの活用によって、近代になってからの全ての戦争は、「闇の支配者」たちの謀略であったことなど、今や百も承知のはずである。“大アホ”からは卒業しているだろう。
    《参照》   『暴かれた「闇の支配者」の正体』 ベンジャミン・フルフォード (扶桑社)
              【戦争の口実】
              【イルミナティ大幹部が予言する世界の未来】
    《参照》   『人類への警告⑥ 真の支配者』 高山長房 《後編》
              【イルミナティ首領の計画】

 後は、「闇の支配者」たちの下僕であり続けているマスゴミたち“超アホ”が、いつマトモになるかである。
    《参照》   『小沢革命政権で日本を救え』 副島隆彦・佐藤優 (日本文芸社)
              【ネオコン派に与する 「三宝会」 】

 

 

<了>

 

  筒井康隆・著の読書記録

     『アホの壁』

     『笑いの力』 河合隼雄・養老孟司・筒井康隆

     『イリヤ・ムウロメツ』